特集「漆の履歴書」
野良御器とよばれた浄法寺塗りの歩み
漆は、『Japan ジャパン』と呼ばれている。
漆に興味をもったのきっかけは、十数年前に出合った一客の椀であった。本来私の中では、漆の器は華やかで高価なものという思いがあった。貝殻を使って装飾されるような、あの螺鈿(らでん)や蒔絵(まきえ)のようなきらびやかな物といったイメージがあったのである。しかしその時の椀は違っていた。何の装飾もなく、朱色の表面は擦り切れ下地の黒い部分がのぞいているような物だった。その姿に、心が動いたのである。口は薄く、手の中に包み込むと、驚くほど軽い。悠然としていて背筋を伸ばし、何事も達観するような姿を、そこに見る思いだった。「漆というものはこのようなものです」と骨董屋の主人は客でもない私に何気なく語った。それが、浄法寺塗との初めての出合いである。この塗り物が気になってしかたがなかった。この氏素姓を知りたかった。それ以来喉の奥に何かがひっかかったような思いにとらわれてしまい、骨董屋の前を通る度に漆物を探してしまう自分があった。この体験を通して、『浄法寺塗を知るには、骨董に聞くこと』ではないだろうかという思いが生まれ、まずは骨董店の主人に、教えを乞うことにした。
流転の定めを背負う骨董は、驚きであり不思議である。骨董と呼ばれる物の範疇は実に広い。宗教に縁のあるものから、暮らしの中で伝承されてきたありふれた雑器や道具まで、ありとあらゆるものがその対象となる。言い換えれば、骨董は身近に眠る価値ある文化財なのだ。こと浄法寺塗についても、同じ思いが私にはあった。だが浄法寺塗というものが何処で作られたものなのかさえ何も知らなかった。岩手県の北部にある浄法寺という名の町。この名が付けられた漆器であるということさえ……。
浄法寺塗り 高杯と三段重
岩手県盛岡市内にある、とある骨董屋の扉を開けた。地元の骨董屋として信用の厚い店である。
名のある骨董屋が、『骨董屋の扉は結界である。覚悟して入れ』と言った言葉を思い出した。目利き一つで、極楽か、それとも……。余計なことを考えまい。
それほど広くはない店内には、ガラスのショーケースが置かれていた。目の前の座敷には武者飾りが居住まいを正し、迷い込んだ客と対峙する。そんなことに怯むことはない。にわか仕込みの骨董知ったかぶりだ。顎に手をあて、腕を組み、ショーケースを覗き込む。覗き込んでいたガラスケースの奥に直径22cmほどのお盆を見つけた。
「それほど古いものではありません。幕末か明治の初めといったところですね。それでもゆうに百年はいってますよ」
主人曰く、百年程度では新しい部類。骨董の世界では、縄文時代の産物から取り扱うことからみて、幕末などの骨董は、随分新しいというわけなのだ。
「この地方ならではのものというならば、漆ですよ。南部藩は漆の生産地。いくつかの様式が生まれて伝えられていますが、その氏素姓がはっきりしません。正直謎の部分が多いですね。」
すでに優れた漆文化が縄文期にあったことは、周知のことである。弓や鏃(やじり)などにみる漆は、主に接着剤として活用された。粘着力が強く、塗ることで堅牢になるといった漆の特徴を上手く利用したのである。その漆は、時代とともに進化し、独自のものを誕生させた。南部藩の時代になると、漆の存在は特別なものとなる。漆は重要な資源となり、複雑な作業過程を持つ漆の技術共々、南部藩は他領地持ち出し禁止令を出すほどになった。このような時代背景の中で漆は成長した。
「漆の様式は、椀物を通して知ると分かり易いですよ」
と言って主人は、金箔が施されたもの、漆絵のあるもの、漆だけが塗られた模様のないものという3種類を並べた。
「金箔で紋様があるものは、百年の栄華を築いた藤原三代の秀衡(ひでひら)から名前がとられた秀衡椀や南部箔椀と呼ばれる南部藩の特権階級のもの、漆だけの無地ものは野良御器とよばれる浄法寺塗りで、一般民衆が暮らしの中で使ったものと言われる物です。実はここで大きな謎がありましてね。」
それは、これらの塗り物の素姓であった。例えば秀衡椀。いつ頃作られたものなのか、明確に立証されていないのだ。『秀衡』と冠するからには、平泉の藤原文化の賜物と思いがちであるが、その裏づけとなる発掘品が出土していない。秀衡にその源を持つというのであるならば、12世紀のその時代、あるいはその近辺の発掘品の中から出土して不思議はないはずなのに、何一つ発見されていない。そのためにある論者は、江戸期に入ってから作られたものと言い、その一方では平安期から江戸末期まで七百年の間、絶えず存続したのではないかと推察する者もいる。今も時代の特定が出来ないまま諸説入り乱れる結果となっている。真実はおぼろげなる彼方にあるといっても良いだろう。2番目に訪れた骨董店で、その謎めいた主役に思いがけず出会うことになった。
浄法寺塗り 組子式五段重
刀剣から浮世絵まで幅広く取り扱う骨董屋である。豊富な品揃えは骨董ファンの間でも有名で、他県からわざわざこの店を訪れる人も多いという。最初の店で聞いた漆椀について訪ねてみた。すると、開口一番、
「薀蓄(うんちく)語るより、本物を見れば謎解きの鍵が見つかるかもしれませんよ。すごい椀があるからお見せしましょう」
店の脇にある小間に、何気なく置いてあった漆椀を手に取った。
「どのようにイメージされているのか分かりませんが、これが秀衡椀と呼ばれるものですよ」
眩しいほどに派手やかな椀と思っていた。だが、その椀は満身創痍であった。姿はがっちりと偉丈夫。椀の側面には割れた傷がある。修復された繋ぎ目は無骨に盛り上がっていた。表面には微かに金箔が残っている。盆に載せると、黙して語らぬ孤高の武将のように、すっくと立った。
「これは、最高のもの。江戸期だと思う。もう二度と出合うない椀だ。誰がいつ頃この椀の割れを直したのかねぇ。その人はこの椀の価値を見抜いていた。だから何とか元の姿に戻そうとしたのだろう。それほど大切にされたのです」
「触れ、触れ」という言葉に促されて、その椀を掌中に納めた。謎に満ちた時を越え、秀衡椀は枯れて枯れて、驚くほど軽かった。そして次に登場したのは、南部箔椀であった。施された文様は擦れてはいたものの、金箔の輝きを残している。姿は、陣羽織を纏う武将さながらの趣である。
「これら優れた漆椀が生まれたのは、品質の高い漆が採れたからです。あれこれ語る前に、その源である場所へ行ってみなさい。キーワードは北緯40度だ」
暗号のような言葉を背中から投げかけられても気にせず、3軒目の骨董屋へ足を向けた。漆絵のお盆や皿ののびのびとした絵柄に感心していると、その店の主人が声を掛けてきた。
「浄法寺塗ですよ。黄漆だけで描いたものは古くて、時代が下がると色数が増えてくると言われています。黄漆は金箔の替わり。金を使えるのは権力者で、豪商や豪農は黄漆のものを使いました」
北東北、漆、謎の椀……。連想している内に、2軒目の店の主人が言った『北緯40度』の意味を尋ねてみようと思った。
「ああ、北緯40度付近というのは、漆の木の育成に最適な場所といわれていて、浄法寺という場所がまさにそこです」
踵を返して私はその場所へ向かった。
秀衡塗椀(江戸初期)
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