秋山加代 十五代 羽左衛門私考 新春特別寄稿 十五代市村羽左衛門
秋山加代の父小泉信三は、無類の歌舞伎好きであった。若い時から歌舞伎、文楽、落語などの舞台によく通い、その折々に自らの感想を日記に記している。経済学者として著述するかたわらで演劇評論家と交流し、特に三宅周太郎が十五代市村羽左衛門についての演劇論を刊行(写真参照)した際には、三宅から小泉宛に謹呈の一筆を添えた一冊が贈呈されている。太平洋戦争終戦の年に空襲のために大火傷を負い、ベッドでの生活を余儀なくされていた小泉にとって、書物が唯一の慰めとなっていた頃、昭和21年にこの本は発行されている。
小泉家の娘たちも、こんな父親の影響を受けたことは言うまでもない。昭和初期、最も日本文化が充実していたといわれる時代に、歌舞伎座へ足を運んだ。小泉加代の記憶によれば、昭和10年頃『そろそろ歌舞伎座へ連れて行っても良いだろう』というお墨付きをもらい、両親に連れられて歌舞伎座へ行き始めたという。その当時、舞台の華であったのが十五代市村羽左衛門であった。この頃羽左衛門は、推測するに50代。円熟した芸を秋山加代は体感していることになる。その時代の娘たちがそうであったように、おこずかいをやりくりしながらブロマイドを買ったという箱一杯のコレクションは戦火をくぐりぬけ、今も秋山の傍らにある。

秋山は現在も月に2度、昼と夜それぞれに歌舞伎座通いをかかさない。新しい次世代の役者たちの舞台を観ながら、脳裏に去来する市村羽左衛門へのノスタルジーを秋山が綴る。
(敬称略 高橋伴子)
昭和21年刊行された
「羽左衛門物語」三宅周太郎著
 不世出という言葉がある。稀代の名横綱双葉山とか歌舞伎役者六代目菊五郎とか、落語の古今亭志ん生とか、私の目に「これだ」と思えた人は各界にいる。しかし、「その中で一人あげよ」と言われたら、私は歌舞伎役者羽左衛門と答えるだろう。歌舞伎の十五代市村羽左衛門、本名録太郎である。

 不世出という言葉を広辞苑でひくと『めったに世に現れないほど優れている事』とある。今まで私は、各界の名人上手に出会って来た。一人一人、なるほどと納得させられるほどの人で、めったに世に現れない素晴らしさであったと思う。しかし、その中でも羽左衛門をなぜ一番に選ぶのかというと、とにかく素敵だったということでしかない。そして、純粋に日本人ではないのに、日本の江戸の風俗を私たちに「これだ」と思わせたからである。純粋の日本人よりも江戸の粋を持ち、そして闊達であった。

 初めて歌舞伎を観た日、羽左衛門は7つの狂言のうち5役を演じていた。その中でも得意の「雪暮入谷畦道(ゆきのゆうべいりやのあぜみち)」の御家人直次郎。通称「直侍(なおざむらい)」の姿は、私を魅了した。

入谷の雪の田圃道を恋人三千歳(みちとせ)に逢いに来る直次郎。片岡直次郎は御家人くずれ。幕府直属の武士の権利を金で手放してしまうような破滅型の遊び人である。遊女三千歳に養われているような立場。博打に没頭して無為な日々を送っているうちに、とうとう指名手配の身になってしまう。追われる中で、わずかの情熱をかけて危険を冒して三千歳に逢いに行く。切ない女心は放っておけず、一緒に逃げるか心中かと直次郎に迫る。直次郎は、迫る追っ手に三千歳も振り捨て、ただあてのない逃避行を続けるのである。

しばらく逢わなかった三千歳を訪ねてきた時の、『所詮俺の運命は儚いものなのだ』というようなあの雰囲気がたまらない。頬被りをしている手ぬぐいの中から形の良い高い鼻がすっと覗く。三千歳の恋心をもてあそぶような悪い男なのであるが、なんとも切なくて清々しささえ感じてしまい憎みきれないものがある。脂気のない姿態、細い足はキリッとくるぶしがしまっている。少し浅黒い肌は、痩せているくせに強そうで度胸と自信に満ちている。その男が、照明の中に浮かび上がっていた。みんなが騒ぐのも無理はない。これが羽左衛門そのものなのである。その日、羽左衛門は他の役は白塗りであったが、この直次郎は白塗りではなかった。この直侍こそ、父たちのような男たちも熱中する羽左衛門なのだと納得した。

その頃の私の耳には、羽左衛門にフランスの血が入っているなど聞こえてはこなかった。その後羽左衛門が死に到るまで9年間あまりに渡り、「恐ろしいほど冴えている」と劇評家たちを驚かせた美しい役々を私は観続けることになった。その頃の羽左衛門は幾つくらいだったのか、多分60代入っていただろうが、実に美しかった。目を奪われていた私は10代の若造であったが、舞台で力む若い役者よりも数段、いや比べ物にならないくらい美しいと感じた。このことも不世出である理由の一つである。振り返って、その後あれほどの役者には出会ったことがない。もう一つ私たちを虜にしたのは、羽左衛門の声である。ああいう声もその後きいたことがない。朗々とした明るい声は滞る事はなかった。憂いを帯びた声、闊達な声、優しい声、自由自在だった。そして潔い男であった。
「与話情浮名横櫛」与三郎
 羽左衛門には西洋人の血が入っていると、私が知ったのは昭和15年頃であった。ある日、電車の中で、まったく羽左衛門そっくりの年配の女性を見かけた。当時流行っていたひさし髪という髪型で、地味な着物を着ていたにもかかわらず、「あ、西洋人だ」と誰もが思う人であった。電車を降りてからそっと母が「あれ羽左衛門の妹さんよ」と教えてくれた。当時有名なソプラノ歌手関屋敏子の母愛子だというのだ。羽左衛門は、素敵な風貌で和服もよく似合い西洋人という感じがしなかった。愛子という妹は羽左衛門とそっくりでありながら、どちらかといえば洋服を着せてあげたいような感じであり、とても不思議だった。この日以来私の中には、ああ羽左衛門はやっぱり西洋人の血が入っているのだなあと、納得した記憶がある。別段びっくりもせず、いやだなあとも思わず、ただ納得したように思う。

 あの愛子という人の地味な和服姿、その人が電車の中の人たちに向けた視線、それらは忘れがたいものであった。すべてのことに興味があり、生き生きと反応するような人であることが私には見てとれた。当時の日本女性の中にいると、おのずと目立つ何かがその人にはあったように思う。
 里見敦著「羽左衛門伝説」という本がある。羽左衛門の出生についての二つの説を解明している。それは、あの電車の中で見かけた関屋愛子という妹が、密かに里見に語ったことに依っており、私が読んだ限り動かす事の出来ない事実であると思った。愛子死去後、戦後に発表された。母が教えてくれたのは戦前であるから、母は一体どこでそのことを知ったのだろうか。誰から聞いたのだろうか。多分、母の兄が里見敦と親交があったことから、その関わりの中で聞こえてきたのだろう。

 さて、「羽左衛門伝説」によれば、羽左衛門の父はフランス人、ル・ジャンドルであったという。明治維新の頃、台湾との功績があって、明治政府から特別の待遇を受けた人であった。リ・ジャンドルと明治政府の書類には記されているようだし、その結果『李仙得』という字を当てている。明治天皇は、『李善得』という日本名を与えたという。

 手元にある岩波書店の「岩波西洋人名辞典」の記述から察するに、以下のようなことであった。
 ル・ジャンドル Le Gendre Charles William (漢)李仙得、李善得、李聖得 1830〜99 アメリカ軍人、外交官。日本渡来の御傭外交顧問。フランスに生まれ後にアメリカに移住、帰化した。(中略) 清国アモイ(厦門)駐在アメリカ領事となり、この間度々台湾に赴き諸問題の解決にあたっていたという。(中略)日本には、明治5年(1872)頃東京駐在のアメリカ公使の紹介で、外務卿副島種臣と会見し、懇望され日本国の外務省準二出仕となった。以来日本に関わる様々な外交問題に関与することになる。日本滞在中松平春嶽の庶子池田絲(いと)と結婚し一男二女があり、男子は十五代市村羽左衛門であるともいわれ、孫に声楽家関屋敏子がいる。

「羽左衛門伝説」によれば、里見敦がル・ジャンドルについての調査に難渋したことが書かれている。この「岩波西洋人名辞典」は昭和31年初版。「羽左衛門伝説」はその前年昭和30年である。もし、「羽左衛門伝説」が刊行されていなければ、羽左衛門についての表記はなかったであろう。外務省に記録が残っていたとしても、ここまでの言及はなかったと思う。「羽左衛門伝説」の効果は十分あったというべきである。ともあれ岩波書店が「岩波西洋人名辞典」において羽左衛門に関して取り上げた事は、重大である。

 この「岩波西洋人名辞典」にも記載されているように、羽左衛門の母は、幕末の福井藩主松平慶永の娘、絲(いと)である。絲の母は松平家の腰元で、主人の子を産むことを奥方に申し訳ないと、出産が済むとすぐ、生まれた娘絲のことを頼み自害してしまったという。絲は家臣に預けられた後、東京で育った。その家臣も困窮し、実の娘を芸者にしている状態。その事態に感じ入り、自ら芸者の道を選んだ。それを李仙得の妻として、日本国のためと大隈重信、伊藤博文らが無理に承諾させたという。当時のことであるから、大名の娘と生まれた人が、西洋人の妻となることを拒否したのは当然であった。「もし子供が生まれたらその子を殺してすぐ自害する」とまで言ったという。それでも目に見えない力には勝てず、結婚させられ3人の子供をもうけたのである。絲にとってみれば、ル・ジャンドルは、日本人でないことを除けば立派な尊敬できる人であった。それに生まれた子供を殺せるものではない。そのまま夫には言わず、人に預け養子にしてもらうことを頼んだ。歌舞伎役者市村家橘の子となったのが、運命の子であったのだ。

 絲の残した歌には、その間の事情がうかがえる。

ふところ刀を手にしつつ(懐剣を持って自害しようとしている)
うらみなむ吾子の末さへ思われて死ぬるいまはのただならぬかな
(私を恨むだろうこの子の将来が思われて死のうとしている私は気が動転している)
さらばとて太刀ぬきつつもかたへなるいとしき吾子に心ひかるる
(さあ死のうと刀を抜いたが傍に寝かした子に心を惹かれてためらわれる)
よき人の子となりて世に栄えかし母は御国につくす命ぞ
(立派な人の子になって出世しておくれ母はお国のために命を捧げます)


年の為ありきたりの口語体に直してしまった。私たちの年代では、詠みなれていた和歌もこの頃は珍しいものになってしまったので。

 絲の和歌はもっとあるのだが、この歌だけでもその心中はよくわかる。関屋家の古い手文庫の中にあったもので、「わが死後は必ず焼き捨てよ」という但し書きがあった。娘愛子はその母の遺言を守ろうとしたところを、里見敦が懇願しやっと許されて目を通したという。これがあって羽左衛門の出生についてのいきさつが分かると思う。こんな緊迫した歌を誰が偽作するだろうか。
 離れ離れになった母子は、後に舞台を通して再び会うことになる。絲とル・ジャンドルは、子役として舞台に出ている竹松こと市村録太郎に気付く。事情も知らずに録太郎は他の役者たちと一緒に、絲の家に遊びに来るようにもなる。母の方もカモフラージュするかのようにいつも若い役者たちを自宅に集めていたようであった。そのうちに、家橘(後の羽左衛門)も愛子も年頃になり、周囲の目もあるので二人が実の兄妹であるということを知らせた方が良いということになった。母と24歳の息子、17歳の妹が親子兄妹の引き合わせとなった。この頃絲の歌の中には、二人の顔が似ていることで人の噂になることを悩む気持ちを歌ったものがみられる。そして、親子兄妹の引き合わせをして、新たに兄妹となった二人にいつまでも仲良くという願いも歌われている。

 羽左衛門が26歳のとき、朝鮮から帰っていた父ル・ジャンドルを交えて親子の会食があったという。その日父は、我が子羽左衛門にその日までのことを侘び、たった一日だが親子兄妹と晴れて呼び合う日となった。父は二人を抱き寄せて親子兄妹でありながら名乗りあえなかった事情を話し、特に息子には「つらく気の毒な生い立ちをさせた」と侘びた。そして、そうなったのは母絲のなみなみならぬ苦しみがあったのだと諭した。いったん刺し殺そうとまで決めた子であったが、どうしても出来なかった母の苦しみを察してあげなければいけないと語ったという。
ありし日の市村羽左衛門氏

 そして羽左衛門に対してル・ジャンドルは、生涯守るようにとの心得を与えた。それは、父の日本語では心もとないからとフランス語で話し、その口述を翻訳させ文書にしたものだったという。そこには、『演劇の発祥や進展の偶然から日本では俳優を卑しめる習慣が出来たが、そんな古い習慣にとらわれることはない。フランスでは芸術家は政治家、富豪よりも尊重されている。自分の職業を卑しいと思ってはいけない。努力と誇りを忘れないように。団十郎、菊五郎のように偉くなろうと考えるな。ただおまえの天から授かった力と美しさを上手に育て上げ引き伸ばしていけばよい。芸術を売り物にせず、蚕が糸を吐くように自分の天分を伸ばしていくだけで、自然とそこによい芸術が生まれるし、それこそはやがて日本の花とたたえられよう』といった意味が書かれていた。

 絲は、歌の中で我が子の顔を「花の様な」と歌っている。母が言うからにはよほど美しかったのだろう。父も涙をうかべていたという。絲は、俳優の仕事を尊いものだといい、その道を授けた神の心の通りになれと教えた夫ル・ジャンドルに感謝と尊敬の気持ちを捧げている。これが明治30年(1897)。その後の歳月、ル・ジャンドルの与えた教訓はひそかに羽左衛門のプライドをささえたのは、いうまでもないことである。

 明治32年(1899)、父ル・ジャンドルは朝鮮で急死する。

 母絲は大正2年にこの世を去った。母が死ぬとき、毎晩見舞っていた羽左衛門は人目を忘れて「おっかさん」と呼んでいたという。母は心して「坊ちゃん」と息子を呼んだというが、羽左衛門は非常の際に約束も何も忘れてしまったのだろう。そばいた看護婦がその有様を見ていて世間に伝わり出したといわれている。

 ある真実が何かの拍子で世の中に披露される不思議なきっかけというものがあると思う。例えば、夢物語のようなトロイの遺跡をシュリーマンが発掘したいきさつを知るにつけ、それらは偶然などではなく神の意思のようなものが加わっているように感じられてしかたがない。羽左衛門の出生のいきさつについても、このようにして里見敦によって世にでたのも、何か不思議な力を感ぜずにはいられなかった。

 羽左衛門は生前、その自伝を問われる折々では、5歳で坂東家橘の養子となったことから始めるのが常であったという。決して出生を明らかにしなかった羽左衛門。あの舞台を思い出す度に、伝説となるべき役者であったのだと、つくづく私は思っている。羽左衛門は昭和20年(1945)疎開先の長野県湯田中温泉で心臓麻痺のため急逝する。無条件降伏による敗戦。この年を境として、多くの人たちの歴史に句読点が打たれた。私事においても例外ではない。兄の戦死、父の大火傷、婚約者のシベリヤ抑留。女たちが肩を寄せ合い黙々と生きていた時代、私の宝物は歌舞伎役者の思い出であり、その姿を映すブロマイドであった。平和でなければ文化や芸術というものは育まれない。まがりなりにも現在日本は、父が愛した歌舞伎も文楽も能・狂言にいたるまで、実に健康である。それがどれほど重要な事かを、伝えたいと思っている。(了)
秋山加代(あきやま かよ) 
大正11年(1922)、慶応義塾塾長、東宮参与であった小泉信三の長女として鎌倉に生まれる。50代の頃、作家である故向田邦子氏と美智子皇后のファッションデザイナーである植田いつ子氏を介して交流し、その縁もありエッセイを書き始める。著書に『父 小泉信三』(小泉たえと共著)『辛夷の花』『叱られ手紙』『好きな人 好きなもの』いずれも文藝春秋社刊
十五代市村羽左衛門
(いちむら うざえもん)

明治7年(1974)東京に生まれ、4歳の時歌舞伎役者坂東家の養子となり7歳で初舞台を踏む。昭和20年(1945)71歳で没するまで、花の橘屋、前髪役者“と呼ばれ二枚目中の二枚目として称賛された役者である。出生の謎は、自ら語られる事なく、没後、作家の故里見敦や演劇評論を多く残した故三宅周太郎などによって伝えられることになる。
※文中市村羽左衛門の写真は、秋山加代所蔵のブロマイド

参考資料:「日本演劇考察・羽左衛門物語」三宅周太郎著、「羽左衛門伝説」里見敦著、「十五代市村羽左衛門 名優アルバム」演劇界別冊
秋山加代さんの書籍がアマゾンで購入できます。
Copyright (c) 2001-2004 i-sys.ne.jp All rights reserved.