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| プロフィール石井好子(いしいよしこ) 1922年東京生まれ。東京藝術大学声楽家卒業。戦後ジャズ歌手になる。 50年アメリカ留学し、51年からフランスへ渡り、シャンソン歌手としてデビュー。パリを中心にヨーロッパ各国の舞台に出演。 帰国後、61年に石井音楽事務所設立。63年日本において初めて「パリ祭」を開催。90年パリ・オランピア劇場で、「パリデビュー40周年記念リサイタル」を開く。 91年、日本シャンソン協会設立。会長になる。99年喜寿を祝って、歌手生活55周年の「ラッキー77コンサート」開催する。長年のシャンソン歌手生活に対して、様々な賞を受賞。中でも、92年には、フランス芸術文化勲章「コマンドール賞」を受賞した。 文筆の世界でも活躍し、63年には、第11回エッセイストクラブ賞を受賞。出版物も多数ある。 |
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戦後の新しい時代、誰もが胸を張れる日本人としての再生を目指したように、
石井好子は、歌手の道へ迷うことなく突き進んだ。 意を決しての渡米。アメリカで出会ったのは、それまで励んだクラシックでもなく、 請われて歌ったジャズでもなく、戦時中彼女の心を支えたシャンソンであった。 ジョセフィン・ベーカーとの出会いは、石井好子の羅針盤に、 疑うことのないフランス・パリへの道を示した。 ドラマティックに歌い綴られるシャンソンのように、石井好子はこの道を選んだのである。 日本人として初めて、シャンソン歌手として本場パリの舞台に立ち、喝采を浴びた。 その確かな才能とともに、帰国。舞台に立ちながら、 日本におけるシャンソンのジャンルを育成し、新しい歌手発掘に心を傾けた。 それぞれに、それぞれの人生がある。愛と悲しみ、迷いと混沌。 しかし、その先にあるものは、希望であると歌いかけてきた。 心に染み込むように歌い、語る彼女のシャンソンを、聴衆は今も求め続ける。 そして、石井好子は今宵も舞台に立つのである。 |
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| 戦時下の不安定な状況での結婚は、石井さんに何ももたらさなかったといってもよいだろう。1945年、日本は敗戦という形で終戦を迎えた。しかし、戦争が終わったからといって何も変らなかったという。ただ、『死なないですんだ』という静かな確信を得たに過ぎなかったのだ。 「夫は、あからさまにはしゃいでいましたね。その年の8月の末には、疎開先から東京へ戻っていました。焼け野原の中で、夫はそれまで勤めていたNHKを辞めて、同僚だったアメリカ二世のサッシュ森山(歌手、森山良子の父)をバンドマスターに、ニューバシフィックバンドを結成しました。優秀なバンドマンがこぞって集まった優れたジャズバンドでした。米軍キャンプへ演奏巡業が目的でした。『1曲でよいから歌って』という言葉に、冗談だと思っていたら、本人はいたく本気なのです。ジャズなんて、レコードで聞いたくらいのこと。まったく知らないんです。迷いに迷っていたら、『Dream』という譜面を持って来たんです。やさしい歌詞と美しいメロディーに、これなら歌えると思い、引き受けました。」 舞台衣装なんていうものも、もちろんない。慌てて母親の黒紋付の羽織りをほどいてイブニングドレスに仕立て、舞台に立った。1945年9月、横須賀の米軍キャンプ。これが、歌手・石井好子のデビューだったのである。 しかし、掛け間違ったボタンは元には戻らなかった。好い妻となろうと努力はするものの、石井さんは夫を愛することが出来なかったのである。その結果、結婚生活は4年で終わりを告げた。歌手としての迷いもあった。もともとジャズが良いと思って、その道を行こうと思っているわけでもなく、どのジャンルの歌手となるべきか定まらなかった。手探りでシャンソンを歌い始めたのは、丁度その頃だったという。 「夫も私も孤独でした。長いこと考えてのことだったのですが、私は泣いてばかりいました。離婚を期に、私は独立。しかし、互いに立ち直れませんでした。彼が夜中にやってきて玄関の扉をドンドン叩く音、私の名を呼ぶ声。別れても、安らぎは遠いものでしたね」 仕事はあっても、目標の無い日々。失意の中で石井さんの選んだ場所は、アメリカだった。 「外国へ行きたいと思ったわ。外国へ出て広い世界を見れば、私も何とか一人前の歌手になれるかもしれない。グズグズしていたら、私の若い時期はどんどん過ぎて行ってしまうという思いがあって、アメリカに留学させてほしいと両親に頼んだのです」 留学を決めた時、歌手を務めていたスターダスターズのリーダーが、石井さんのためにさよならコンサート開いた。司会は、森繁久弥さん、トニー谷さん。ゲストに淡谷のり子さん。当時、日本のバレエ界でプリマドンナとして活躍していた貝谷八百子さんが花束贈呈という盛大なものであった。 |
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| 石井さんが日本からアメリカへ飛び立ったのは、1950年。日本の飛行機などまだ飛んでいない、そんな時代の留学であるから、容易いものではなかった。レントゲンや血液検査まで必要とされ、アメリカの生活に責任を持ってくれるスポンサーまでもが必要であった。幸せを願う父は、山中湖の別荘を売って、娘の夢のためのチケットを用意した。ただし、与えられた約束の期間は1年間。週1回父母に手紙を書くこと。こうして旅立ったのである。 石井さんにとってのアメリカ留学時代は、これまでの歌手生活においての、いわばプレリュードにすぎなかった。ハワイを経由してサンフランシスコへ。入学を許されたのは、ミュージック・アンド・アート・インスティチュートという学校であった。 「一番高い丘の上の高級住宅地にありました。学校の近くに下宿したくて、探しに行ったのよ。そしたら、空き部屋ありの看板があるのに、私が日本人だと分かると『sorry』って断られて続けました。敵国の娘ですものね。でも、最後に訪ねた、学校に一番近い大きな家のスイス人だけは、何の懸念も持たず部屋を貸してくれました」 このウェナーハウスには、8人の女性が下宿していた。その中で、ブロンドのオペラ歌手、エロイーズと親友となる。エロイーズはサンフランシスコのパシフィックオペラの中堅スターであったが、シーズンオフは事務員をしていたという。 「音楽学校の勉強の合間に、ミュージカルやクラッシックのコンサートに通いました。初めてオペラにもでかけ、ミュージカルも体験しました。『南太平洋』は、オリジナルキャストで観たんですよ。きらめきの舞台を目の当たりにして、クラクラするような感激でした。学ぶことがたくさんありました。プライベートレッスンに通う毎日の中でそんなことをしていたから、私のお金はどんどん消えていきました」 50セントの電話もかけず、お昼ご飯も食べずに頑張るような毎日だった。そんな中で、石井さんは稀代のシャンソン歌手、『黒真珠』と呼ばれたジョセフィン・ベーカーに出会うのである。本物のシャンソンに包まれ、石井さんはこの歌の虜になった。 |
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| ゴールデンシアターに出演していた、ジョセフィン・ベーカーの舞台に石井さんは心を奪われていた。かつて戦時下で、毎晩のように聞いていたベーカーの歌。「二人の恋人」「トンキン娘」「ハイチ」。その人の舞台を身近に観られる。そのことは、何よりも大切なことであった。 「夢中になって、学校の午後の授業は全部さぼってゴールデンシアターに入り浸りでした。ショーとショーの間に宿題をする始末。それを見ていた劇場の支配人が話し掛けてきて、会わせてあげようと言うの。目の前に憧れの人がいる。それだけでも感動なのに、楽屋へ連れて行ってくれて、そこでサインをもらいました。その時、彼女が私に言ったんです。シャンソンを勉強したいなら、パリへ行かなくてはだめよってね。」 ベーカーの言葉に背中を押されるように、パリ行きを決心するのである。パリへ行くことは、アメリカを去ること。その背景には、切ない恋の終焉があった。 「当時パリには、戦後いち早く渡仏した親戚の朝吹登水子(仏文学者)がいたので、パリへ行くと手紙を書くと、夏はオフシーズンだから、秋までまったらどうかという返事をもらい、その指示に従うことにしました。それで、ステートカレッジのサマースクールに通うことにしたんです。そこで、スタンフォード大学を卒業したばかりの若い講師が、英語講師として現れました。ちょっと気取っていて、素敵な先生でした。ある日彼は、ジョセフィン・ベーカーの話をしたんです。人種偏見にもめげず、歌と踊りで世界に名をなした立派な女性だと称賛しました。そのことに私は興奮したんです。『ちょうど昨日、ベーカーに会ってサインをもらったの』ということがきっかけとなり、一緒にコンサートへ行きました。こうしてお付き合いが始まりました。やがて彼は、結婚しようと告白してくれました」 この誠実な青年と結婚し、平和な人生を作って行く。それも一つの選択だった。しかし、石井さんは、『イエス』とは答えられなかった。日本での離婚、独立のための留学。まして、自分より若いアメリカ人の青年との結婚など、許されるものではないと思っていたのである。 「パリへ行く決心をしていること、それから日本へ戻り両親に話して、ここに戻って来るわと約束しました。この気持ちは、嘘ではなかったんです」 『必ず彼の元へ戻る』と決意し、ニューヨーク行きの汽車に乗った。『貴方なしにどうして生きてゆけるだろうか』という言葉を残し、泣きながら乗ったのだという。しかし、石井さんの人生はパリヘ向かって進んでいた。恋は終わるのである。 |
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ジェセフィン・ベーカーと
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| 「憧れのパリに着いたというのではなく、最初は、こんな所へ来てしまったというのが第一印象でした。フランス語が分からないという心細さもあって、通訳は親戚にあたる朝吹登水子の力を借りました。わずかなお金と、一ヶ月という限られた時間が、私のパリでした」 わずかな時間の中で、石井さんはシャンソンを身に付けなければならなかった。「パスドックの家」という店で、歌手としてのテストを受けることにした。それも、常連客のいる前でのテストである。 「『愛しているといって』を歌うと、品の良い紳士がこの歌を作ったのは私だと言って近づいてきました。その曲の作曲者、ミシェル・エメでした。その偶然が私に思わぬ幸運をもたらしたのです。エメの推薦で、私はその店で歌うことになったのです。」 それは、パリについて二日目のこと。歌う仕事を手に入れたのだった。当時のお金にして週給1万円ほどだったという。1952年、「パスドックの家」の舞台が、シャンソン歌手としてのパリ・デビューとなった。それは、シャンソン歌手としてのスタートであり、自分の進む道がシャンソンであることを確信した時でもあった。ある日、当時パリで名声を得ていたいた画家・藤田嗣治が、その舞台を訪れる。 「“新聞を見てね。日本の女性を応援しようと思ってきたのよ”と言って、赤いバラの花束を差し出したの。フジタが花を捧げた歌手というわけで、翌日から私を観る観客の目が変るほどでした。それほどパリでは有名な画家だったんです」 この店で歌っているうちに、自立の時が訪れる。マネージャーが付き、ヨーロッパ各地での仕事が始まった。コントラクト(契約)1本持っての旅だった。そしてもう一つ、大きな挑戦がレビューの舞台だった。モンマルトル広場の「ナチュリスト」。そこで得た契約は、なんと365日無休で舞台出演。週給7万フランの仕事だった。 「無休で1年間舞台に立つ。無謀といえば無謀なのだけれど、この体験が今も私の拠り所なのです。辛いことがあっても、あの仕事をやり遂げたのだから恐くないと思えるのです」 パリ時代は、石井さんに多くの宝物をもたらした。同時代、パリで学んでいたオペラ歌手砂原美智子さん、衣裳を作ってくれた中原淳一さん、画家フジタもそう。神経質な彫刻家のジャコメッティは、石井さんを信頼する親友として付き合い、共に食事をする機会も多かったという。名の知られたレストラン「クーポール」で、ジャコメッティはテーブルナプキンに石井さんの顔を描いた。今も大切に保存されている。実存主義者として有名なサルトル、そしてボーボワール。憧れの歌手ダミアは、石井さんの前で歌い方を教えてくれたほどだった。「人」という宝物を得ながらもその一方で、日本でのシャンソンを考え始めるのである。 |
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親交のあった藤田嗣治の絵
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| 外国に出て4年。買い物袋を片手にぶらさげて、パリの街を歩く。こうして歩いていることがしごく自然であった。外国人としての意識などなかった。フランス人のように、食べ物の話ばかりしていたという。その日常のなかで、石井さんは、気付いた。『こうして人々はパリの虜になり、帰れなくなるのだろう』……帰らねばと思った。パリに居着いてしまうわけにはいかないという思いがあったのだ。 「日本へ帰りますというと、フジタ先生は声を荒げて“それはダメダ。好子はパリの歌手だよ”と言われました。“弱虫ね”とがっかりされたんです。でも、今が帰り時という思いが強かったわ。日本で働いた方が少しは役に立つような気がしたんです」 帰国した当時は、まるで女浦島太郎のようだった。海外で歌手として成功した石井さんを、当時の新聞は大々的に取り上げた。父・光次郎氏は、当時自由党の幹事長。世間は放っておくはずはなかった。知らない間に帰国記念コンサートが企画されるような状態。石井さんは、ただ家族とゆっくり時間を過ごしたいという思いで帰ってきただけである。すぐに仕事をする気にはならなかったのだ。マネージメントの不手際から支障が出た。その度に人間関係がギクシャクする。 「このままでいたら潰される。この状態では、まともな仕事ができないという危機感もありました」 帰国はしたものの、納得のいく仕事ができる状態ではなかった。そして、石井さんは再びパリヘ戻る決心をするのである。 「パリへ突然戻った私には、これという仕事はありません。そんな中で、キューバへ行ってみないかという話が持ち上がりました。キューバへ行くチャンスなどないなと思って承諾したんですが、それよりも、かつての恋人がいるニューヨークへ行けることが、何よりも魅力でしたね。留学生として渡ったアメリカで、今度は歌手として挑むという気持ちもあったと思うわ」 石井さんがキューバで歌おうとしていたのは、キューバ革命の数ヶ月前だったという。歌う予定の店が封鎖され、そのままニューヨークへ向かった。 |
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画家・藤田嗣治とともに
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| ニューヨークは1ヶ月の予定だった。そこで、舞台のオーディションを待つ間、石井さんは旧友と再会する。そこで、石井さんは運命の出会いをするのである。 「へンリー・フォンダの舞台を見に行こうと、当時、読売新聞の特派員としてニューヨークにいた土居通夫を誘ったの。幼ななじみというか、小学校の同級生。当てにしていた女友達が急用で行けなくなって、土居を誘って、そのあとバーで飲み明かした。これまでの人生を語り明かした時、私は、この人と別れられなくなるのではないかと思いました。それから、毎日会いました。恋とはこんなにも苦しく辛いものとは思いませんでした。会いたくて会いたくて、他の事は何も手につかない」 しかし、彼には妻があり、土居通夫氏は単身赴任の身だった。苦しい恋愛の始まりの時、石井さんは、35歳。 「彼の家庭を壊す気は毛頭ありませんでした。思い切らなくてはと決心して、フィラデルフィアで歌うことにしました。しかし、想いは逆なのね。ひたすら手紙を書き、電話をして……逆効果よね。手紙だけで4年間付き合い、そしてね、私たちは結婚しました。私が出したたくさんの手紙を、土居は几帳面にスクラップしていました。それは、大学ノートに6冊分もありました」 ニューヨークで4ヶ月。石井さんと土居氏の関係が、ちらほらと噂になってきた。石井さんがニューヨークにいるのは、「土居氏との関係があるからだ」とか、丁度その時、女優山口淑子さんがアーティストのイサム・ノグチ氏と離婚したことを受けて「石井好子の相手は、イサム・ノグチだ」とか言われていた。肩身の狭い、人の目を避ける暮らしは嫌だったという。 「離れることで、新しい始まりはないと信じたかったの。義兄がユネスコ勤務となり、姉もパリにいたので、そこに身を寄せることにしました。ニューヨークでの苦しい日々にピリオドを打とうという気持ちでした。でも、彼を思わぬ日は一日、一時もなかった。その時から4年間、私は一度も土居と会わず、ただ手紙だけをたよりに彼を待ち、結婚したのです。その時私は39歳でした」 |
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マ左橋は父、光次郎。
右端は佐藤栄作 |
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| 再びパリから帰国すると、石井さんは気の合うマネージャーに恵まれたこともあり、日本におけるシャンソンの礎を築くため精力的に活動する。1955年からの10年間は、まさにシャンソンブーム。パリからは、ダミアに続いてイベット・ジローが来日。越路吹雪、高英男、芦野宏、中原美紗緒が大活躍する。石井さんの帰国コンサートの舞台監督は、当時まだ早稲田大学の学生だった永六輔だった。石井さんの活躍は続く。TVや舞台で歌う日々が続いたある日、石井さんは引退を考えるようになった。 「歌う機械みたいに思える時があったんです。仕事に追われながら空しくなってしまったの。そろそろ歌手を辞めるべきではないかと真剣に悩んだんです。来年は40歳だなという思い。土居もいまだ帰国しない。それならば、音楽事務所を作って後進の指導をすべきではと考えました」 こうして、石井音楽事務所が設立されたのである。そんな時、土居通夫氏が帰国した。持病の胃潰瘍の悪化のためだった。帰国してすぐ入院。数ヶ月後、土居氏は離婚する。その年の7月7日、晴れて2人は結婚の運びとなった。媒酌人は、政治家故佐藤栄作氏夫妻だった。 「私の人生で、一番幸せな日でした」 その後、石井さんは、才能あるシャンソン歌手を数多く送り出した。1961年に開かれたパリ祭コンサートは、その年から恒例となった。若いシャンソン歌手たちにとって、この舞台は、大舞台を体験できる貴重なコンサートとなっている。 やがて、石井さんが歌手生活35周年を迎えたようとした年、悲しみが訪れた。最愛の夫の死である。その時、石井さんは、病床にあった夫のもとから舞台へ向かった。そしてその9ヵ月後、父・光次郎も逝ってしまう。 『百花為君開』(百花君のため開く) これは、夫を失い悲しみに沈む娘のために筆をとりしたためた書であった。 「嘆き悲しんでいるけれど、お前の周りには百の花が咲いて慰めている。自分一人の人生ではない。皆が自分のことを思ってくれていることを感謝しなさい」と、この書は語っていた。 悲しみのどん底にあっても、涙があふれ、泣き伏しても、立ち上がり歌った。いつでも石井さんのそばには、シャンソンがあったから。 「今、シャンソンを歌う人たちには大変な時代です。才能ある人たちにより多くの機会を作ることが私の役目でしょう。そのためには健康で歌えること。木原光知子さんに誘われてマスターズの水泳大会にでたことがあります。思いがけずに優勝し、とても嬉しい体験をしました。体が健康であることの喜びを再認識しました」 石井さんの著書『さようなら私の二十世紀』のあとがきにあるように、80歳になった現在でも舞台に立ち、未だそのシャンソンの道を歩み続けている。 ……人生の流れの中で、ある時は激流に翻弄され、戦ってきた私は今も一生懸命泳いでいる身なので、年寄りになったと思う余裕がないのだ…… (了) |
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マスターズ水泳大会
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文・構成 高橋伴子
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