インタビュー辻輝子さん
プロフィール

1920年東京・日本橋に生まれる。大森光彦、富本憲吉に陶芸を、浅香金次郎に日本画
を師事。女流陶芸家の草分けとして、戦前より一貫して第一線で活躍。皇室をはじ
め、全国に多くのファンをもつ。現在、伊豆高原「陶の華美術館」館長。静岡県伊東
市在住。2002年、作品展を開催。
恵まれた環境の中で生まれた。一流のものに囲まれて育まれた。
偶然が生み出す光の造詣に憧れて 
陶芸家辻輝子さんは、穏やかな気候に恵まれた伊豆・川奈に住んでいる。伊豆半島の丘陵地帯を縫うように続く細い道を辿ると、突然目の前が開けた。大海原だった。ゆるやかな弧を描く水平線。光る海。相模湾の風景である。この絶景を独り占めするかのように建つのが、辻さんの陶房と住居である
女性の年齢を詳らかにするのも心苦しいのだが、しかし、このことをまず話さなければ、辻さんについて語ることは出来ない。辻さんは大正9年(1920)生まれ、82歳。現役の陶芸家として活躍している。2年程前、辻さんは約千点の作品の注文を受けた。当時80歳。そこまで求めらたもの。それは、辻さんがその憧れを注ぎ込んだ万華鏡であった。この世に二つとない辻輝子の万華鏡。人々はそれを求めたのである。
万華鏡は、小さな覗き穴のある筒状の道具。覗き穴の向こうにあるのは、取り込まれた光によって織りなされる色の世界である。わずかな動きで文様は一変する。何よりも不思議なのは、二度と同じ文様に巡りあえないという切なさである。辻さんが万華鏡とであったのは、六歳の頃だった。
「父からの贈り物でした。イギリス製の万華鏡。覗いてみると綺麗なんですよ。一体どんなものがこの中に入っているのだろうかと思いました」
以来、万華鏡が作りたいという思いがつのるものの、なかなかそのチャンスを得られなかった。
60歳を過ぎた頃、ようやく好機が巡ってきた。万華鏡作家チャールズ・カラディモスさんとの出会いだった。彼が設計した画像との共同製作で、初めて辻さんの万華鏡が誕生したのである。万華鏡の外側を、辻さんのやきものが抱えるように飾ったのである。身近な植物や動物が施されたやきものの筒。これは、この世に二つとない宝物であった。何時でも傍に置いておきたいと思わせるような、まさに座右の宝。多くの人たちが辻さんの作品を求めてやまない理由がここにある。
偶然が生み出す光の造詣に憧れて 
現代に生きる我々は、辻さんを語る時、ごく自然に「陶芸家」とよぶ。しかし、辻さんの生きてきた時代は、女性が職業を持つことがあり得なかった頃である。そうたやすくはなかった。
「今では女性が陶芸をやるなんて普通のこと。職業として陶芸の世界に生きて女性もたくさんいるわよ。ところがね、私が陶芸を始めた頃は、とんでもないことだった。女流陶芸家という言葉さえない時代。女の陶芸家などありえない時代だったんです」
男だけの世界。なぜ、そこに飛び込んだのだろうか。
「そんな時代なのに、父は『やきものをやれ』っていうの。嘘みたいな本当の話なんだけれど、私が十代の頃、その当時高名な占い師のところへ、父は私を連れていったんです。その人の名は、石龍子(せきりゅうし)という人で、政治家までもが占ってもらうような人でした。美術に造詣の深かった父は、娘に何かやらせようと思っていたんです。その道を占ってもらおうという訳でした。その先生は、私の顔を見るなり『この娘は、眉の形が大変美しいので美術家にしなさい』と言われ、父はすっかりその気になってしまいました」(笑)
父は娘に、自分の夢を託したのである。
「父は和歌山の出身でした。絵描きになりたかったそうです。上京して食うや食わずの苦労の連続だったのですが、私が生まれた頃には、秋田の油田や砂金をあてて随分成功していました」
元来、美術への憧れを持つ人。芸術家たちのパトロンとしても貢献したという。その父親の口癖が『質のよいものを見なさい』というものだった。骨董でも絵画でも、やきものでも、父親の傍にはすばらしい作品が置かれていたという。こんな環境の中で、辻さんはやきものに出会うのである。
「父の手元に、富本憲吉さんの作品がありました。その作品を目の前にして、父は『良いものだからよく見なさい』としょっちゅう言っていたんです。それが何時の間にか私の感性の中に刷りこまれたのかもしれませんね」
様々な理由はあったものの、辻さんが決心したのは、やきもののもつ日常性だった。
「それまでは、日本画を習っていました。所詮娘のやることですからね、仕事も綺麗ですし。でも、ある時気づいたんです。母親の乳で育った子供が乳離れをして、すぐに口にするのがやきものの器。その時から生涯付き合う物なんですね。日常茶飯の暮らしの中にある物がやきものだった。だからやきものを選んだのです」
偶然が生み出す光の造詣に憧れて 
辻さんが陶芸の道を選んだ時、父は娘にこう言ったそうである。
「女で陶芸をやっている人はいない。誰もやっていないから、価値がある」
自分のことのように結論を出してしまうと、父は娘の師匠を捜すために奔走する。宮本憲吉、浜田庄司、いずれも門前払いだった。
「やっとやっと、知人の紹介で大森光彦さんという先生に巡りあい、『やめない』という一筆を書いて入門を許可されました」
陶房は古い体制であるとともに、機械化などされていない状況。その中で女一人、やきもの修行が始まった。
「両手はあかぎれどころか、ザクロが割れたようになって、痛くて痛くて。それに休みは、お正月とお盆の年二回。娘ざかりでしたからね。辛かったですよ。何よりも嫌だったのは、窯を焚いた後の窯掃除でした。私の役目だったんです。窯の中の灰を掃き出して外へでると、もう頭から体中が真っ白。灰かぶりです。近所に住んでいた学生が『若い乞食だ』って囁いているのが聞こえるんです。それが悲しくってね」
そんな状況に耐えられず、辻さんは、あの手この手で逃げ出そうと試みるのだ。
「もう嫌だと思って、家の庭の隅に隠れるんですが、どうしてわかるのか、父は私を見つけるんです。その度に、頭から水をかけられました。そして連れ戻されるんです。その繰り返しでしたね」
そんな日々の中で、辻さんは、大森氏の右腕ともいうべき根橋洋一という人に出会う。時代は戦争一色になろうとしていた時だった。
「とうとう音を上げて、大森先生の陶房をやめました。父は、今まで教えてもらった芸術を無駄にするのかと言って怒鳴りました。家に戻ると根橋さんがいて、彼も出てきてしまったというのです。根橋さんの『やきものの技をすべて教えるから、陶芸を捨てるな』という言葉に改心し、根橋さんに教えを乞うことにしました。根橋さんの指導には、鬼気せまるものがありました」
彼は必死だった。
「『兵隊に行かねばならない。もう陶芸はできない。死ななければならないのだから』そういっていた根橋さんは、昭和19年(1944)上海で戦死しました」
根橋さんがいたから陶芸家になれたのだと、辻さんは語った。
まるで託されたかのように陶芸の技を得て、戦後、辻さんは女流陶芸家として走り始める。父親から受け継いだ美意識と鑑識眼の確かさが生かされ、多くの芸術家や文人が辻さんの周りに集まって来るようになった。その中で、辻さんの心に今も心に残る二人の淋しい巨人が居るという。
「岡本太郎と北大路魯山人。近代の美術界で大きな足跡を残した二人です。顔をつきあわせれば喧嘩ばかりでした。相反するように見えて、心の内側は同じだったように思えます。二人とも、母親の愛情に薄い子供だったからね」
岡本太郎は、漫画家岡本一平と作家岡本かの子の一人息子。母、かの子は、スキャンダラスな話題に事欠かない女性だった。子を持つ母というよりは、女としての生き方を選んだ人である。その一方で、魯山人は、母親に打ち捨てられたような人であった。
そんな魯山人が、辻さんに愛情を込めた言葉をかけている。『自分自身のものを作りなさい。すべての基本は、自然を写生することに尽きる』この言葉を信じ、作陶し、辻さんの素晴らしい作品が生まれたと言ってもよいのである。溢れるほどの才能を持ちながら、たった一つ、人を愛する事を知らなかった巨人たち。辻さんは彼らを、まるで赤子をなだめるように受けとめたという。
辻さんの女流陶芸家としての歩みは、常に一歩先を行くものだった。戦後の荒廃した状況の中で誕生した、陶製のアクセサリーは、当時の婦人雑誌を賑やかに飾った。昭和52年(1977)、カナダ・モントリオール美術館で観た、クレマンソーのコレクションに触発され、辻さんは独自の香合を生み出した。多くの芸術家に刺激をうけ、我が物としていく辻輝子の姿は、まるで万華鏡そのものの輝きに似ている。今年、再び個展が開催される。
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文・構成 高橋伴子
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