シャッターの落ちない二眼レフから始まった写真人生
杵島隆氏 顔写真 写真家 杵島隆氏(きじま たかし)
1920年  アメリカ・カリフォルニア生まれ
1938年 鳥取県立米子中学校卒業
1942年 日本大学芸術学部映画科卒業
1945年 第13期海軍飛行予備学生 海軍中尉・従7位
1991年 勲4等瑞宝章
東京写真文化館館長
日本写真著作権協会理事
日本広告写真家協会名誉会員

受賞:朝日広告富士最優秀作家賞
毎日広告写真賞
ライフ広告賞(アメリカ)
日本写真協会年度賞・功労賞
ほか
個展:「裸」「ニューヨーク ハートビート」「砂の伝説」「蘭」「蘭花曼荼羅」「義経千本櫻」「菅原伝授手習鑑」「杵島隆展」ほか多数

作品集:「蘭」「義経千本櫻」「蘭・百花譜」「四季 新宿御苑」「桜の四季」「裸像伝説」ほか多数
呼吸している写真にであったときから、私のインタビューは始まっていた
ここ数年、私には、一つの思いがありました。どうしても話を聞いておきたい聞いておかねばならないと思う人がいたのです。
初めてお会いしたのが、かれこれ十数年前。私はまだまだ駆け出しのひよっこでした。魑魅魍魎ともいえる出版の世界へ、ただ夢中で、情熱だけで飛び込んでしまい、行く末も認識できないような新米でした。そんな中で出会った『写真家杵島隆』は、大きくて大きくて、正直怖い存在だったのです。眼光鋭い写真家……というのが、私の第一印象だった。やっと口を開くと、とても大きな声で指示するような方でしたから、なかなか近寄れず、ただただ失敗のないようにということばかり、考えていました。けれど私には、その張り詰めた緊張感が、なんとも心地よいものでした。
目の前で繰り広げられる『杵島隆の作品』は、それまでの雑誌写真とは確実に違う何かがあって、その当時、未熟な私は私なりにそれが何なのかを模索した覚えがあります。
曲がりなりにも編集という仕事を覚え始め、それも婦人誌というグラビアページの多い雑誌でしたから、それなりに多くの写真を私は扱っていました。随分たくさんの写真を見ていたと思います。編集作業の中での写真の存在は、ややもすると材料の一つにしかすぎない、という錯覚にとらわれてしまうことがあります。しかし、杵島さんの写真は違っていたのです。時間に追われる作業の中で、何となく見入ってしまうような写真でした。
ただ目の前にある情景を、カメラというメカを通してとらえただけの単なる写真ではありません。そこには、風が吹いて木々の葉を揺るがすざわめきのような、あるいは、木漏れ陽の暖かさを感じさせるような手ざわりのあるシーンがとらえられた写真だったのです。無駄のない画面でした。たとえ、人物を撮っていても、優雅な曲線をもつモティーフのように感じさせたり、動きのある映像のような画面であったりしました。しかし、その世界の中に作家自身は共存していません。何一つ踏み込んではいない……私にはそう思えました。常に静かな目で対象を確認するかのように見つめている視点を私は感じました。その寂たる距離感が、私を魅了し続けたのだと思います。
まるで呼吸しているような画面。杵島隆の写真は生きていました。
なぜ、そんな写真を撮ることができるのたろうか。それを知るには、「杵島隆」自身を知ることだと、思ったのですが、しかしそれには、少しばかり時間がかかってしまいました。私自身の成長が必要だったからです。
小谷先生
「小谷先生」1938年
吹雪の日
「吹雪の日」1939年
映画の世界でビジュアルという無限の可能性のあるテーマと出合った
杵島さんは饒舌に自ら喋るようなタイプではありません。叱られるかもしれませんが、どちらかといえば、その年代の男にありがちなタイプです。寡黙で、ちょっと短気で、喋り出すと直球で、そしてシャイな人といえるでしょう。一言でいってしまえば頑固で、いつでも「僕はこうなんだ」という姿勢を決して崩すことはありません。写真においてもそうです。杵島さんの人生を後から行くものにとってみれば、こんな姿に出会うと、憧憬以外の何ものでもありません。その姿を形作った原点。それは、人生の始まりにありました。
日射 「アメリカ・カリフォルニアに渡った両親のもとで生まれて、4歳くらいのときに、母の実家のある鳥取県の米子に、兄と戻った。帰国して一番下の弟が生まれて、だから、当時の状況としては兄と僕がアメリカ国籍。弟が日本国籍となった。兄は、日本の中学を卒業すると、父がいるアメリカに戻ったんだが、僕が中学を卒業する頃には、アメリカでは、満州事変が日中戦争に拡大し、日米戦争の前夜であったため、日本人の資産も凍結され、アメリカへ戻ることを選べなかった。その時代は、ずっと僕は二重国籍の状態にあったといえるね。今じゃ考えられないことだけれど。」
その時代、杵島さんと同じ子供達は、排日法による危険を予測して、どんどん日本へ送り返されていた状況だったといいます。
杵島さんは、中学を卒業すると、知人の紹介で、映画の製作会社、東宝へ入所することになります。東宝の委託学生として、日大の映画科へ進学することになりました。杵島さん自身の強い希望があったわけではありません。自分の置かれたやもうえない立場がそこにはありました。自力では、その状況をどうにもできないのです。そこで選択できる方向はこれしかなかったというのが、正しいでしょう。ところが、東宝の委託学生として過ごしたという経験が、後になって写真家杵島隆の仕事の上で、重要な要素となっていきました。
「日大の映画科に入ると、そこで自分だけが宙に浮いているように思えたんだ。他の連中は、演出をやりたいとか制作をやってみたいとか、具体的な目標をもっている。そんな中に放り込まれてしまって、しょうがないから、最初から映画を見直すことにしたんだ。どうして、この映画にお客さんが見に来るのか、その仕組みを調べようと思った。まあ、今でいうマーケット・リサーチ、市場調査だな。そんな言葉もない時代だ。」
一本の映画が公開されると映画とともに、配給された地方にまでついて行って、観客のデータをとったのです。そして、通学の合間には、東宝の撮影所で、中村メイコといった子役の世話係などをするかたわら、一世を風靡していたエノケン(榎本健一)や、徳川夢声達との出会いがありました。
「日射」1938年
車輪
「車輪」1939年
太平洋戦争の中で、写真家杵島隆が培ったもの
そして、昭和18年、杵島さんは大きな選択をすることになります。
「戦争が随分大変なことになってきて、各大学に特別攻撃隊の生みの親である、大西中将が自ら入隊の募集に来られた。すでに、そのとき『日本は負ける』とはっきりいっていた。しかし、『ぶざまに負けたくない。君たちの若き力とともに、最後の戦いをしてくれないか』といったようなことを熱っぽく語りかける。ゴールのわかっている状況でそんな風に話されると、もうみんな感激してしまうんだ。」
聴衆はみな20歳前後の若者ばかりでした。「死」など恐れぬ相手だったのです。杵島さんは、第13期海軍飛行予備学生として海軍に入隊することになります。
このとき、兄はアメリカで、そして弟である杵島さんは日本で、カリフォルニアにいる父は、日本人収容所でそれぞれの戦争に立ち向かうことになったのです。
「配属されたのは、水上航空機部隊だった。通称水上機部隊というのは、水の上すれすれに飛んで偵察したり、そしてその結果どこそこを飛べというように指示するような立場。訓練後は隊長として偵察などをやっていたけれど、僕の上官はベテランの人だったからか、責任は俺が取るから、やりたいことをやれというような態度だった。だから、意外にも若い連中がまとまっていたね。水上機というのは、とても重要な役目をしていた。特に、終戦間際にアメリカがレーダーを完成させて、戦艦に取り付けられるようになると、日本の戦闘機は、高く飛べなくなってしまった。レーダーに捕まって、どこにいるか解かってしまうからね。それで、特攻機の場合などは特に、ある程度低空で飛んでいかねばならないんだ。ところが、本来決められた高度で飛行訓練されているから、操縦する方は怖くてしかたがない。慣れていないといえばいいかな。だから、僕達のような水上機の連中が誘導し、特攻を成功させるわけだ。」
「特攻を成功させるための誘導」そして、誘導が終われば、水上機は、基地へ帰ってくる。特攻の成功は、死です。あっさりと杵島さんは私に語り聞かせていることの、その重さを思いました。時には、どのような戦果が上がったのかを確認するために、航空写真を撮りにいかねばならないこともあったのです。杵島さんは、送る立場でしかなかった。耐えがたき体験と今の私には思えます。
この時代の様々なことは、80歳を過ぎた杵島さんの胸の奥底に、澱となって沈んでいるに違いありません。後年、杵島さんは、サクラを撮るようになります。「何故、サクラを撮るのか」という質問に対して多くを語りません。ただ、『特別なものだから』とだけしか答えず、いつでも不思議でした。そのわけは、きっとここにあるのです。
そして、終戦。杵島さんは、九州で迎えました。
「終戦間際、日本へアメリカ軍が上陸するといったデマが飛び交うようなパニック状態だった。土佐沖にアメリカの艦隊が集結してるなんていうのもあった。それはアメリカの攪乱作戦にすぎないんだが、外の連中はカッカしてね。貴様は弱腰だとまで言われた。だがね、もうその頃には、敗戦、戦争は終わるということは、解かっていてね、ちょうど終戦の前日など、上官は僕に言うんだ。明日出陣予定の連中をみんな連れて、遊郭へ行って来いってね。どんちゃん騒ぎをして、帰ってくるなって言われたんだ。その上官は、戦前海外勤務が多く、割と冷静にに物事を判断できた人だったから、無駄に死なせたくないと思ってそんなこと言ったんだろう。そして、終戦の日の、夜中に非常召集をかけて、整備の人間からすべて、飛行機に乗せて自分達のふるさとへ帰すという指令を出した。自分達の故郷の近くにある飛行場まで、飛行機に乗って帰れという命令を出したんだ。」
最終的にそこに残ったのは、杵島さんと上官だけだったのです。
もし、終戦が後一週間伸びていたら、きっと自分も出撃していただろうと杵島さんは語ります。
(以下第二回に続く)
※ページ中写真すべて(顔写真を除く)撮影:杵島隆氏
日を浴びる男
「日を浴びる男」1938年
バトンタッチ
「バトンタッチ」1937年
明暗
取材・構成 高橋伴子
「明暗」1945年
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