シャッターの落ちない二眼レフから始まった写真人生 第三回
杵島隆氏 顔写真 写真家 杵島隆氏(きじま たかし)
1920年  アメリカ・カリフォルニア生まれ
1938年 鳥取県立米子中学校卒業
1942年 日本大学芸術学部映画科卒業
1945年 第13期海軍飛行予備学生 海軍中尉・従7位
1991年 勲4等瑞宝章
東京写真文化館館長
日本写真著作権協会理事
日本広告写真家協会名誉会員

受賞:朝日広告富士最優秀作家賞
毎日広告写真賞
ライフ広告賞(アメリカ)
日本写真協会年度賞・功労賞
ほか
個展:「裸」「ニューヨーク ハートビート」「砂の伝説」「蘭」「蘭花曼荼羅」「義経千本櫻」「菅原伝授手習鑑」「杵島隆展」ほか多数

作品集:「蘭」「義経千本櫻」「蘭・百花譜」「四季 新宿御苑」「桜の四季」「裸像伝説」ほか多数
第一回 第二回 第三回(全三回)
* 上京するならば、あくまでもプロとして生きたい
人生の中には、『もしも』と言う言葉は存在しない。『もしもあの時、こうであったら…』と人間は、考えがちですね。別な選択をしていたら、もっと別な人生を歩んでいたに違いないと、人は、浅はかにも思うのではないでしょうか。例え、その『もし』を選択したとしても、結果的は大概そう変わらぬものです。杵島隆があの時カメラを手にしなかったら、今の姿はないのでは……。あの時特攻隊に志願しなかったら……。きっとこんな話をしたなら、杵島さん本人は、喝破するに違いありません。どんな時にも、どんな状況にあっても、時代と運命を懐柔する術しかなかった杵島さんにとって、『もし……』という仮定は、ありえないと思えるからです。
上京を決意したその時、杵島さんにとって、その身を束縛するものは、何もありませんでした。故郷米子を捨てるのではない、出発するのです。杵島さんは、幼い頃洗礼をうけた敬虔なクリスチャンです。話しを聞く私には、米子からの出発は、あたかも『約束の地』への出発のようにさえ思えます。その決意の時、すでに33歳。家庭もありました。そういう訳でもなかったと思いますが、杵島さんは、あくまでもプロフェッショナルにこだわったといいます。
「上京前から、ちょくちょく東京には出てきていた。新宿の飲み屋で当時の文士たちと酒を飲みながら、大いに意気を上げたりしていたから、これからの日本の状況がどのようになっていくだろうかということは、何となく感じるところがあった。まだその頃は、広告代理店などという大それたものなどない時代で、あの電通でさえ、婚礼写真などが中心だった時代ですよ。その中でね、きっとこれからは広告だと思った。日本そのものが、何かを得ようというエネルギーがあって、地下のマグマみたいにね。日本経済の高度成長の予感みたいなものさ。これからの時代、広告という分野は、かならず時流をつくると思った。だから上京する時には、プロ写真家として生きるという決意があった。だが、プロということは、シャッターを金銭に変えるような感覚があったらしく、賛否両論の出発だった」
この行動に、杵島さんが師と仰いでいた2人の写真家の反応は、対照的でした。米子の写真家として杵島さんを高く評価をしていた社会派の写真家土門拳は、大いに怒りました。まるで、杵島さんが悪魔に魂を売ったかのごとく、広告写真家となることを否定。その結果として、写真界から杵島隆はボイコットされることになったのです。
「とにかく、自分の写真を評価してくれた、いわば師匠みたいな存在だから、これから広告写真を撮っていきますとあいさつしておこうと思ってね、会いにいったんだ。そしたら、振り返りもせず向こうをむいたまま、『広告写真なんて俺は聞いたことはネエ』というんだ(笑)広告写真は、写真じゃない、そんな感覚だった。しかし、今思えばその時、土門さんなりの愛情だったのかもしれないと感じている。そういって突き放したほうが、杵島は必死になるだろうと考えたのかもしれない。その当時、広告写真だけで、生活を賄えるとは思えなかったから、家族のことも考えたのかもしれないと思っている」
その一方で、戦後すべてを失って米子に帰った杵島さんに、写真という生きる道を導いた植田正治は、その時、ただ「行ってこい」と杵島さんの肩を押したのです。植田正治は、2000年にこの世を去りますが、最後まで米子を離れずその地でシャッターを切り続けた在野の写真家でした。この2人がいたからこそ、杵島さんのその後があったのだと思います。この2人の師匠を、杵島さんは、こう表現しています。『……このお二方は縄文と弥生の違いがある。土門縄文と弥生植田といっておかしくない(中略)写真リアリズムと写真アブストラクトのそれぞれの洗礼を受けたことが幸いした……』
* 広告写真をコマーシャルフォトにまでセンスアップさせた
上京後、最初の舞台となったのは、ライトパブリシティでした。この会社の前身は、日本工房と呼ばれ、戦時中には、土門拳や名取洋之助といった、今では伝説的な写真家たちが対外宣伝のための本などを作っていた会社だったのです。戦後、ライトパブリシティとして改めて発足すると、そこには、当時の図案家集団、今でいうグラフィックデザイナーたちが毎日のように集まり、新しい何かを模索するといった、杵島さんが予見したやがてくる広告の時代前夜のような日々でした。
「米子からその当時手元にあった、アメリカの雑誌、ヴォーグやバザーを全部送った。これから始まろうとしている広告写真のための資料として送ったんだ。いざ会社にいくと、カメラもフィルムも満足にない状態。それも米子から送った。米までも送る始末だった。朝鮮戦争を介して、印刷技術の発展をみることになり、それと相乗して日本の広告業界が爆発的に発展したといえるんじゃないかな。その時、見本にしたのが、アメリカの雑誌だったんだ。それを手本にライトパブリシティのデザイナーたちにデザインを学ばせ、プレゼンテーションというものを学ばせた。それまでの商業写真とか広告写真ではなく、あのアメリカの雑誌にあるようなコマーシャルフォトにしたかった。実に多くの広告を発表することになったんだが、しかしね、僕はその十年も前から、広告写真の何たるかを、アメリカ兵にもらったそれらの雑誌から教授されていたんだな。だから、ライトパブリシティで仕事を始めた時は、何の違和感もなく広告写真を撮ることが出来たんだ」
杵島さんの手がけたクライアントは、第一線の企業ばかりでした。酒造業界を始めとして、日本専売公社、東レ、カネボウ、テイジンなど新しい日本の経済を担う元気な企業とともに、数々の名作を残します。
 1956年、杵島さんはライトパブリシティを離れ、独立。キジマスタジオを設立します。この頃から、広告の分野から雑誌の分野へと、活躍の場を広げていきます。そして、ここにおいても杵島さんの新しい試みが提案されました。『サンデー毎日』から表紙依頼を受けた時、それまでの雑誌の表紙といえば、画家の描く絵の表紙が本道であったものを、杵島さんは、映画界で活躍する女優たちのポートレートで構成したのです。「9人の写真家と9人の女優」と題された企画では、各映画会社推薦の女優が起用され、大変な評判を受けました。そんな企画ができたのも、かつて杵島さんが東宝で働いていた経験とその時の人脈があったからでした。現在では当たり前ともいうべき、雑誌表紙の表現が、この時杵島さんによって確立されたといっても良いでしょう。
 そして、1960年、杵島さんは、その前年にアメリカの『ライフ』誌に掲載された八幡製鉄所の企業広告において、最優秀企業広告賞を受けたのです。アメリカと日本との間で、アイデンティティーを模索し続けてきた杵島隆の道程の中で、このことは、特別なものであったと思います。こうして、杵島さんは、レンズを通して時代時代の扉を開け続けてきたのです。
田中千代ファッションショー(パリ)
田中千代ファッションショー(パリ)
田中千代ファッションショー(パリ)
1963年
* 杵島隆のヌードは、単なる「裸」ではなかった
杵島さんの作品の中で、非常に印象的な仕事の一つが、ヌードです。杵島さんがヌードを手がけたのは、意外にも早く、終戦後ほどない時期でした。
「米子の家(大篠津)は、米軍基地と隣り合わせにあって、当時、基地に出入りする女たちが身近にいたんだ。そして、裸の写真を身につけた兵隊は、弾に当たらないというジンクスがはやってね。ヌード撮影をたのまれるようになった。それが、写真雑誌に載ったりするようになったのが始まりだったが、ヌード・フォトを撮る、というただそれだけではなくなった」
この頃から、杵島さんは亡くなった母が遺した聖書のテーマに、ヌード・フォトの作品を作ろうと思い始めます。創世記の中に書かれている天地創造の物語。原子爆弾の投下によってすべてを失った日本。そして、再生。そこに重ね合わせたのです。『欲望と堕落がうんだ戦争はノアの洪水となって(中略)人々を滅亡させた。だが宇宙の創造者は救世のため女を準備し、その女を男の助骨から創られた』それが、「女人誕生」として結実したのです。その撮影はスタジオに留まらず、富士山五合目、千葉・御宿の砂丘、そして街へと展開されました。展覧会の出品作品は事前に検閲を受ける時代であった。その検閲は無事通過し開幕したにもかかわらず、二週間ほどして事件は起きました。皇居桜田門の前で撮影されたヌードの作品が問題となったのです。聖域である皇居桜田門でヌードとは何事かと、不敬罪にとわれ、アメリカでも報道されるほど大騒ぎとなったのです。本来の意図した杵島さんの女性像は、上っ面な騒動によって見過ごされがちだったように思えます。豊かで自由でしなやかで、すべてを創造する女神。創世記の中に誕生した女性像。これが杵島隆が表現したヌード・フォトなのです。
女人誕生 1960年
女人誕生 1960年
桜田門 1958年
桜田門 1958年
* 語り尽くすことが出来ない写真家としての足跡
写真家としての活動は、多岐に渡りました。蘭の花の撮影では、十年を超す粘りずよい取材の後「洋蘭」という一冊の本にまとめました。この本は、国際的にも話題になった一冊です。その後も、定期的に蘭の花を撮り続けています。また、歌舞伎、文楽などの伝統芸能の撮影も積極的に取り組んでいます。これらの舞台写真の撮影は1961年から始められたもので、一時中断したものの続けられました。振り返れば、それぞれの時代の姿を記録する結果となりました。もう一つ忘れてはならない仕事が、杵島さんにはあります。「櫻」です。
蘭 Laelia harpophylla 1981年
蘭 Laelia harpophylla 1981年
『僕には特別なものなんだ』こういい続けている杵島さんに、あえて『何故ですか』と私は問いませんでした。あの膨大な数々の作品の根底に見え隠れする想いがすべてを語るからです。写真家杵島隆がどれだけの作品を残してきたかなど、わずかな時間では聞き及びませんし、お伝えできません。とにかく今もって、杵島さんは現役なのです。月刊誌「家庭画報」の誌面では、女優檀ふみさんのきもの姿を撮影しています。次に何を撮るのかを常に期待させます。
 2001年、故郷米子の美術館で杵島さんの作品を一同に会した展覧会が開かれました。中学の頃に写した作品から現在のものまでの集大成となりました。その直前に、中国地方は大きな地震に見舞われ、開催も危ぶまれたほどでした。図らずもその地震で、杵島隆が暮らした家は崩壊しました。せめてもの幸運は、保存してあった作品が、すでに展覧会のため持ち出された後だったということ。この状況の中で、実に多くの人たちがこの展覧会に足をむけたそうです。
 インタビューの最後に『趣味はなんですか』という私の問いに、その答えは『写真』でした。私自身のつたない編集者としての人生の中で、写真家杵島隆に出会ったこと、そしてその仕事の一端に触れさせて頂いた事。時代の幸運ともいえるめぐり合わせに感謝し、インタビューを終えたいと思います。
※ページ中写真すべて(顔写真を除く)撮影:杵島隆氏
取材・構成 高橋伴子
第一回 第二回 第三回(全三回)
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