小泉淳作(こいずみじゅんさく)
1924年 神奈川県鎌倉市に生まれる。
1943年 東京藝術大学日本画科入学。同年召集。
     士官学校での生活で結核発病。そのまま復員。
1948年 復学。山本丘人に師事。
1952年 卒業。
1962年 陶芸を学び始める。
1969年 最初の個展を東京・京橋 中央公論社画廊で開催。
1976年 陶芸展開催。
1977年 今日の日本画 山種美術館賞展(山種美術館)
    『奥伊豆風景』優秀賞受賞。以後展覧会多数。
2000年 鎌倉 建長寺法堂天井画『雲龍図』完成
2001年 回顧展『ひとり歩き その軌跡――小泉淳作』展開催。
2002年 京都 建仁寺天井画『双龍図』完成。
取材・文 高橋伴子
日本画家小泉淳作の姿を前にして、ある人は「野心家」という。確かに、人生の晩年ともいえる世代になったのにもかかわらず、次々に大作に立ち向かうエネルギッシュな姿を前にすると、そんな言葉がでるのも当然かもしれない。
一人の老画家が巨大な雲龍図に打ち込んだ。西暦2000年を迎えようとする頃、小泉さんは、なんと2作目の雲龍図を完成させていた。

「鎌倉・臨済宗建長寺から創建750年を記念する法堂の改築のため、天井画の制作を依頼され、『雲龍図』が完成したのが平成12年。まさに2000年だからね。その後すぐに、京都の臨済宗7本山の一つに数えられる建仁寺から、開創800年迎える平成14年に、天井画をという依頼が舞い込み、『双龍図』を描きました。確かにたて続けに、日本画家として大作に恵まれました。不思議ですよ。絵を描き続けてきましたが、画家で生活出来るとは思わなかったもの。
画家としてやっていけるようになったら、70歳を過ぎていた。それから2ヶ所の天井画を手がけられるなんて、ありがたいことだと思っています」


思えば、小泉淳作という画家が世に認められるまでには、長い年月が費やされてきた。その思いをはねのけるように、今、ほとばしるような製作活動に没頭している。
小泉さんは、最初から画家を目指していたのだろうか。

「そんな思いはありませんよ。慶応の幼稚舎に通っていた頃、近所の同級生の家へ遊びに行ったら、そこに絵描きが教えに来ていました。そいつは絵なんて大嫌い。それで僕に目をつけて、習いに来いということになった。その人はいわゆる昔でいうところの絵師。画家になるために、小さい頃から英才教育を受けたというわけではありません。遊びの延長みたいなものでした。絵を描くことのセンスみたいなものはあったのだと思います。ただ普通の家よりは、身近に美術品があって、知らず知らず感化されたのかな。特別な物という認識はなかったけどね」

小泉さんの育った環境は、一般的な視点でみると大変特殊な状況だった。少年時代のことは、「随分昔のことで忘れた」というものの、少なからずこの頃の影響がその後の生き方に影を落としているように思えた。

「父策太郎(さくたろう)は、マスコミ界で手腕をふるい、後に政治家となりました。その七男として僕は誕生したわけですが、正妻の子供ではなかった。生みの母は、昭和4年、僕が5歳の時に亡くなり、兄弟はみな本宅に引きとられました。突然知らない人を『お母さんて呼びなさい』なんて言われてね。敷地は約5000坪、部屋数が50もある家で、お手伝いさんと書生の間で暮らしたようなものです。父は3ヶ月に一度くらいしか麻布の家に帰ってきません。家庭的にはひどい環境でしたよ。
父は三申(さんしん)という号を持っていました。仏教美術の大変な収集家でもあり、その世界では随分有名で、論文や随筆を残しています」


素晴らしい美術品に囲まれて育ったのだろうと、聞く者は想像するが、本人曰く皆無だったという。

「仏像の収集室があって、見て暮らしたけど何にもわかりません。子供だもの。兄弟は多かったが、美術の美の字もわかる奴なんていなかった。みな優秀でしたが、計算のほうばかりで、絵が好きだとか、美を感じるなんていう兄弟はひとりもいません。僕は突然変異でできたような子供。父親の本当の子供か、なんて悩んだりしましたよ。父は昭和12年、僕が13歳の時に亡くなりました。
育った環境のせいで画家になるのではない。そもそも僕の専攻は仏文だったからね」


小泉さんの心を虜にしたのは、文学。それもフランス文学であった。
「慶応義塾の幼稚舎から普通部、そして昭和16年、17歳で大学の文学部予科仏文科に通いました。文学へ憧れですよ。たまたま安岡章太郎さんがいてね。僕より4つ上の彼は、学生時代から雰囲気があって、文士になるために生まれてきたような男です。彼は仲間数人で同人誌をやっていました。僕なんか相手にされないし、第一仲間にも入れてもらえませんでした。

その同人誌を発行しようということになった。印刷することになったもののすでに戦時下、どこも引き受けてくれません。兄の印刷会社に頼んで印刷してもらいました。手に入らないような紙を使ってね。でも、出したのはその一冊だけでした。そこに載っていた安岡さんの小説を読んで、あぁ、こりゃかなわんと思いました。仏文科にいるのが嫌になってしまいました。それで絵がいいなと思ったのです」


そして、画家の道をめざしたのだという。しかし時代は、そう容易く導いてはくれなかった。

「絵の方は何とか人よりはましに描けていたから、大いに興味はありました。予科を一年休学して受験勉強をして、昭和18年、19歳で東京藝術大学に入学しました。今でこそ難関といわれ大騒ぎする藝大だが、その頃は油絵が一番難しくて三人に一人。日本画なんか、二人に一人は合格。同期は14人でした。

戦争真っ只中で絵描きには不幸な時代でした。国家の非常時に絵なぞ描く奴は国賊だ、なんていわれて。僕が12,3歳頃、絵が好きだといったら、父親は良い顔はしませんでした。『なんだお前、絵なんか描けるのか』なんてすごく冷たかった。自分の気持ちを貫いて、なんとか藝大の日本画科に入れました」


何故日本画を専攻したのかと問えば、あっさりと答えがかえってきた。

「手ほどきをしてくれた人が偶然日本画家だったからでしょうね。傾倒した画家も特にいませんでした。藝大を受ける頃になって、初めて色々な人の絵を見ました。若い頃は誰でも良いと思った。まあ、そういうものです。良いと受け入れて、真似したりして散々描いていくうちに、だんだんそれを捨てていく。自分に必要な物だけが残るのだと思います。

日本画を学ぶ環境は素晴らしかった。資料は使い放題だし、先生には、安田靫彦(やすだゆきひこ)や小林古径(こばやしこけい)、奥村土牛(おくむらどぎゅう)といったそうそうたる人たちが僕たちの絵を見てくれました。大変な贅沢ですよ。僕は山本丘人(やまもときゅうじん)先生にひかれ師事しました。それも束の間。戦争が激しくなって大学どころじゃなくなってね」


戦争はすべてを狂わせた。絵筆を取るかわりに、銃を手にした。
「昭和18年10月に召集されました。僕は戦前に入学して戦後に卒業したことになります。卒業までには相当な年月を費やしました。 
士官学校で軍隊生活です。食料も悪くてひどい暮らしでした。一年ほどで結核になってしまって、昭和20年に帰されました。もう何でも良いから帰れればいいやといった気分でしたね。そのとたんに終戦。その頃結核といえば、死の病。薬なんてない。寝ているだけの治療です。伊豆にいた兄の家に戻り、2年ほどブラブラしていました。

昭和23年に復学。でもまた胸をやって、今度は別な所が悪くなりました。当時24歳ですからね、これは困ったと思っていたら、アメリカからストマイという薬が入って来て、保険で使えるという。続けて使ったら、さーっと直りました。結局卒業したのは昭和27年28歳の時でした」


卒業後は、生きることが先決だった。一朝一夕で画家にはなれない現実が立ちはだかった。

「藝大を卒業したからといって、作品をいきなり買ってくれる人なんかいません。絵描きは大体食えないものですよ。昭和29年、30歳の時に結婚。家族を養わなければなりませんから、デザインの仕事をしたのです。デザインは人のため、絵は自分のためと思っていました。お菓子のパッケージや自転車のマークなど、たくさんやりました。外部のデザイナーたちが、プランを100も200も持ち込み、その中から決まるのです。僕はとても採用率が良くて、けっこう売れっ子でした。サラリーマンの2、3倍くらいの収入でしたけど、どうしても好きになれなかった。嫌でした。やっているのが嫌で嫌で仕方がなかった。

仕事をもらってこなければならないことが、我慢できない。担当者がえばってましてね。一週間に一度、仕事をもらいに行きます。その帰りにご馳走しなければならない習慣がありました。機嫌をそこねると『今週は仕事がありません』なんていう。接待して帰る頃になると、僕は腹が痛くなった。ストレスです。それで判で押したように腹を壊して……(笑)
仕事をもらうために人に媚びるなんて嫌でした。そんな中で絵を描き、毎年公募展に出品していました。その頃の夢は、何とかしてデザイナーから足を洗うことだった」
ちょうどその頃、小泉さんは陶芸に出会う。

「湯呑みを買いにいったら気に入った物がなくて、自分で作れないかなと思いました。昭和37年頃、38歳くらいの時でした。鎌倉に富本憲吉のところでやきものをやっていた小城久次郎(おぎきゅうじろう)という職人がいると聞いて訪ね、その人に学んだのです。好きな時に行ってイタズラしていました。

何年か経つと家の中がやきもので一杯になって、売ってくれないかなんていう人も出てきました。作品展を開いたら何とか一年間食えるくらいの収入になりました。やきものの方がよっぽど良いと思ったとたん、デザインの机をみんな放り出して(笑)。

やっとデザイナーをやめられたのは、昭和50年頃、50歳を過ぎていました。勝手に僕が焼いた物を買ってくれる。それに楽しいしね。その一方で、やきものは芸術ではない。実用品だという思いがあった。絵は何といっても純粋芸術です。その思いがあったから、ひとりで目指してこれたのでしょうね。」


デザイナーとして生きてきた時から、小泉さんは描き続けている。休むことなく描いた。自分の心に正直に生きる。その情熱が画家としての小泉淳作を支えていたのだろう。
どの団体にも属さず描く姿をみて『孤高の画家』と呼ばれるようになった。

「好きではないね。20年以上も公募展に出品していて、認められず会員にもなれなかった。団体に属さずにきたから、そう呼ばれるのでしょう。そんな格好良いことじゃない。49歳を最後に公募展への出品をやめました。定期的に個展を開いていたら、昭和52年に描いた『奥伊豆風景』が山種美術館優秀賞に選ばれました。53歳の時です。受賞したのは、後にも先にもその1回だけです。そのことで作品が知られるようになりました。その頃は、中国の水墨画へ憧れた模索の時代でした」

その頃から水墨の世界へ没頭していく。

「水墨画を描くようになったのは還暦になった頃。昭和40年代に、当時有名な美術評論家で田近憲三という方がいて、僕の絵を評価してくれた。ある時田近さんの家へ招かれ、中国の唐宋時代の水墨画を見せてもらいました。凄かったね。今の日本画よりよっぽど新しいと感じた。そこには哲学のようなものがあった。いつかは水墨画をと思っていました。なかなか難しくてね。

一般的に日本画は、下地の段階から順に重ねて描く、つまりプラスしていくやり方。僕の場合は、描いた物を消したり洗ったり、押したり引いたりして描く。水墨画ではそれは無理と、長い間思い込んでいました。それが、奥秩父の山を写生していた時に、突然『今だ』と思った。それで、水墨画の作品が生まれました。何とか食べられるくらいの絵が売れるようになったのは、その頃ですよ(笑)」


800年前の中国の水墨画を知ることで、後々天井画を描くことに繋がっていった。

「僕の絵の原点はリアリズムです。だからとことん写生するし、そのことにこだわります。山も野菜も花も、描く対象に対峙し写生して、生きている『気』のようなものを捉えたいと思うのです。見方によっては、僕の絵は怖いといわれることがある。それは気迫ですよ。そのために写生が必要なのです」
「現実主義の僕に、龍を描けという。困りました。見たことがないもの。架空の存在でしょう。結局、中国の古い良い絵を見て学ぶほかはないなと思いました。独創性は自己宣伝になる。龍を描くには、自分を殺す必要があるということも知りました。僕の描いた龍だなんていう気持ちは毛頭ありません。『雲龍図』では問題なかったが、『双龍図』はその大きさのために、制作場所を探すのに大変苦労しました」

『双龍図』は、畳108枚分にもなる広さ。制作のためのプレハブを建てようかという話もあったが、予算の上で無理だった。頭を悩ませていた時に、偶然にも北海道でうってつけの場所が見つかった。

「帯広市郊外にある中札内村に、廃校になった学校があって、その体育館を使ってもよいということになりました。古いとはいえまだ十分に使えるし、二回に回廊があって、描いた絵を俯瞰することができたのです。

平成14年3月に、建仁寺の天井に張り上げられ時、鎌倉から京都へ攻め上った武士の気分でした。長年絵の道をひとりで歩いて来た僕にとって、78歳にして大した仕事をしたものだなあと思いました


大作を立て続けて完成させた小泉さん。今後はどのような作品に取り組もうとしているのだろうか。

「平成13年、回顧展やってもらいました。今までの作品を一通り見られたので有り難かったね。まあ、大したことないなと思ったが、いい加減に描いたものは1点もなかった。貫いてきたこれまでの人生は、いいたいことをいうことでした。目まぐるしく変化する時代、自分の中に一本筋の通った動くことのない価値観を持って、これからも自分に正直に生きぬくということに尽きると思っています。

僕のこれからの道はと問われるならば、新しいものをどうすればよく描けるかということ。それを死ぬまでそれを続けよと、僕の描いた龍は、俗世に生きる僕にそういって睨んでいるように思います」


山を描き、谷を描き、水を描き、空を描き、そして龍を描いた小泉さんは、天地の間に満ち満ちた「気」を描き尽くそうとしている。

そして今、小泉さんは新たな挑戦を企てている。奈良・東大寺内の襖絵の挑戦である。その総枚数は、60枚あまり。日本画家小泉淳作の野心は、尽きることはない。

老練で力強く新しい小泉淳作の日本画の世界は、千年の未来への遺産になろうとしている。
作品集より
作品集より
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鎌倉建長寺天井画
シーラカンス
2005/01/14更新
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