ニャチャンは、ホーチミンから北へ400km。白砂のビーチが6km余り続き、コバルトブルーの海が広がってリゾート地そのものと聞いていた。台風の時期をよけてこの10月の出発を選択したのも、そんな美しい風景写真をねらっての事だったが、一向に曇り空は好転せず、海は鉛色のままだった。どこがリゾートなのだ!これだという写真が、未だに撮れていない。
内外のリゾート客で賑わうニャチャンも、ヴェトナム戦争当時は、アメリカ軍の重要な拠点であったことは、ゆがめない。飛行場を有する場所である以上、ベトコンゲリラの駆逐のための戦闘機が並んでいたのは確かな事実である。しかし、当時、ニャチャンは、変わろうとしていた。その影を払拭するかのように、新しいホテルの話でもちきりだった。平衡感覚に優れたヴェトナム商魂ならではの姿である。ホテルにチェックインする頃、雨は本降りとなった。スコールのようなものかと思っていたが、就寝する時間になっても雨はやまなかった。ヴェトナムの雨は、太く強い。日本で感じる雨は、音はすれども姿は見えずといった感覚が、私にはあったのだが、ヴェトナムの雨はしっかりと見えるし、割り箸のような太さの感触もある。「雨もいとおかし」などといってはおられない雨の有様が、そこにはあった。
翌朝も、前日と変わらぬ雨だった。朝食はコンチネンタル。ヴェトナム式のコーヒーを飲みながら、今日のスケジュールを申し合わせていると、バンさんが新聞を片手にやってきた。「タイフ−がきています。この雨もそのせいでしょう」と皆に伝えた。もう、台風の時期ではないはずだと思いながらも、出発には差しさわりがないという先生の判断で、早速我々は、出発のための荷造りをした。日程の変更が必要な場合は、必ず東京の編集部へ報告しなければならない約束だったので、その煩わしさも、少しあったのだろうと思う。この分なら大丈夫という気持ちが勝って、私は先生の判断に、あえて異論は唱えなかった。取材に必要な道具を手元に出し、後は、ボストンバッグに梱包することにした。赤い手帳には、その日9時半に、ホテルを出発したことが書かれていた。雨足は、途切れることはなかった。道が内陸部に入ると、やや弱くなるものの、雨は降り続く。次の宿泊地までの間に3箇所ほどの村を調査取材する予定だった。ファンナン、カランケンなど、当初の目的は順調に進行した。村の村長以下、長老たちが、怪訝そうな顔をして遠来の我々を客として迎えてくれたが、子どもたちにはそうでもなかった。何度か私は、背中に石を投げられた。その度にバンさんが謝る。「かまって欲しいんです」と償う。幼い頃のガキ大将は、ヴェトナムでも健在だった。
取材の途中で、チャム族のお爺さんと知り合い、その村へ訪ねることになった。頭にはターバン、顎鬚をたくわえ、黒い傘を杖がわりに携え、裾の長い筒状の服を着ていた。年齢不詳。シャムは、ヒンズー教の流れをくむ宗教で、ヴェトナムではある時期、一国家を造り上げるほど大変な勢力をもっていた。その名残りが、祠のように立つカラン(塔)の遺跡である。ヴェトナム中部地方では、樹木に覆われたカランをよく見かける。彼の名は、キムカインさん。村へ着くと、どこからともなく、湧き出るように大勢の子どもたちが現れた。驚異に満ちたその光景を前に、私はたじろいだようだ。手帳には、「この村には、明るい家族計画が必要なのではないか」と書かれている。
そして、再び目的地を目指す。しかし、雨。前進すればするほど雨が強くなってくるようだ。
私の不安は的中した。雨の量が予想をこえた量になってくる。走るごとにシャワシャワという水音が、やがて不気味な重い水音に変わってきたのである。我々のミニバスは、確実に水没している。緩やかな丘を越えた時、だった。前方に大きな湖が広がっているのを見ると、ドクさんはミニバスを片側にゆっくり停め、バンさんと二人何か相談し始めた。私は悠長に『こんなところに湖がある』などと、雨にけむる風景を眺めていた。時間をしきりに気にしながら、バンさんは意を決したらしく、再び車を発車させた。丘を下り、その湖を渡るようにして1号線を行くと、前方の道があっという間に冠水していく。道が水没し始めたのである。ドクさんの予想では渡りきれるという計算だったが、予想を越えた豪雨にその目算は、はずれてしまった。
遠くでぽっかり何かが浮いている。それは、なんと水牛だった。水牛が流され、そして、先を走っていた大型のトラックコンボイが、徐々に水に飲まれていく。目の前に展開される嘘のような光景を前にして、私はやっと悟ったのである。湖などではない。水田が水没して出来た、巨大な水溜りだった。このまま立ち止まっていたら、あのコンボイと同じ運命。我々は、勇気ある撤退を選んだ。バックミラーを見ながらのUターン。降りつける雨に、視界は最悪であった。その中で、必死にハンドルをかわすドクさん。彼に、命を託す他はなかった。路肩から水田に落ちぬように、慎重な運転だった。その間も、少しずつ水がせまってくる。道路が見えなくならないうちに、この場を脱出せねばならない。事態は緊急を要した。「さっきの丘のてっぺんに、鉄道の駅があります。そこへ避難しましょう」的確なバンさんの判断に従い、我々はやっと迫り来る水の災難から逃れることが出来たのである。
問題はその後だった。未だにその駅が何という駅であったのか思い出せない。手帳にも書いていなかった。混乱の中にあったのだと思う。その駅には、周辺の車が一斉に避難しており、駅前の広場は、コンボイの車両で溢れかえっていた。夕方5時近く、我々の車は駐車する場所を確保し、そこで待機となった。ドクさんは、雨合羽姿で、一人奔走していた。コンボイの運転手から情報を集め、ラジオに耳を傾け、今どのような状況なのかを、我々に伝えようとしていた。我々が次に行こうとしていた街は、すでに40cm以上冠水しているとの情報が飛び込んだ。前進も後退もできない状況が、明らかになった。そのニュースを受けるやいなや、ドクさんは近所の農家を改装したような食堂に飛び込み、いち早く我々の食料を確保してくれた。この機転は、ありがたかった。我々は何一つ食料を持っていなかったのだ。その時点で、我々は、移動を断念。ミニバス・ホテルで、嵐の一夜を明かすことになった。
食堂では、威勢の良いトラック野郎たちで占領されていたものの、その店の親父は親切に迎えてくれた。日本人の客など初めてなのだろう、我々の顔をじっと覗き込むように「特製のインスタントラーメンを作る」と言ったそうである。どんなものが、出来上がるのかと、行儀良く我々は待っていた。ヴェトナム語の氾濫するざわめきの中、私は空ろな気持ちでバンさんの話を聞いていた。すると、奥の方で、騒がしい鶏の叫び声が聞こえてきた。悲痛ともいうべきその声は、一瞬のことで、その後は何事もなかったかように、静かになった。そして、全てを理解した私とカメラマンは、思わず顔を見合わせたのである。やっぱり。運ばれてきた特製インスタントラーメンには、ボイルされた鶏肉がトッピングされていたのである。人一倍デリケートなカメラマンは、絶句して箸をつけることは出来なかった。何もない状況で作ってくれた特製ラーメンである。残して返すわけはいかない。故に、私とバンさんは正しい選択をすることにした。彼の分を半分ずつシェアすることにしたのである。こうすれば、現地住民との紛争は起こらないのである。
次の問題は、トイレ。飲んだり食べたりすれば、自ずと自然現象は起こる。男の場合、自然は実に寛大で、どこでもOKなのであるが、さて、私の場合は、何とも面倒である。ひるんではならない!陽が暮れて、真っ暗になってから行動しようと私は心に決めていた。だが、風雨はいっそう強くなるばかりで、ミニバスの車体さえ揺るがしている。時計は8時を指していた。「決行します」と言い置いて、私は暴風雨の中へ飛び出した。右手に懐中電灯、左手にティッシュペーパー。フードつきの雨合羽に身を包んで、漆黒の闇に突入した。人間の心理とは不思議なもので、何一つ見えないような闇の中でも、生理的現象を果たそうとする時、身を隠す何かを捜そうとするのである。誰にも覗かれる事はないと思っても、私は必死にその何かを捜し、事をすませることができた。車内に戻ると、何故か拍手が……。さて、後で分かったことだが、その場所は豚小屋の脇であった。
過酷な夜は過ぎ去った。曇天の空が明るくなってきた。思いっきり窓を開け、天気を確かめた。風も雨もやんでいる。そして、目の前に広がっているのは、靄がただよう見事なモノクロームの世界だった。ぬかるみに足をとられながら、私は近所を散策した。昨夜のことが嘘のように、周辺は静寂に包まれている。迷子の水牛がおっとり草を食んでいた。流されようと大したことではないと言わんばかりの態度である。一夜の同士たちが、一人二人と起きてくると、ヴェトナム語独特の響きで、この世界は一杯になった。その中で、近所の農家の子どもがいち早く駆けつける。ほかほかのゆで卵を籠に入れ、売り歩くのだ。田圃は水びだし。水が引くまでには、しばらく時間がかかるだろう。まずは、目先の商売である。このしたたかさ、柔軟性に、ヴェトナム人気質を見たように思った。この自然を懐柔しなければ、生きて行けない。多くの知恵が彼らにはあった。
この日、今後の予定についての話し合いを行った。話し合いというよりは、先生の決断でしかない。天候の好転が望めない今の答えは、撤退である。我々は、ニャチャンへ戻ることにした。
ナンまでの陸路が水害によって不通となった今、選択は空路だけである。滞在日数の限りを考えて、ニャチャンからダナン経由ハノイ行きの国内線に乗ろうということになった。こんな状態であるから、足止めになった観光客も多いだろうと考え、一刻も早く飛行機のチケットを押さえようということになった。雨は穏やな表情に変わっていた。チケットを取り扱うカウンターへ飛び込むと、思った通り、チケットは争奪戦であった。目指すフライトは、すでにドイツ人の団体に押さえられているという。諦めかけたとき、バンさんの本領が発揮された。「一度で諦めるのは愚か者。トモ子さん、何か化粧品を持っていませんか。それと、チップを10米ドルくらいください」指示されたとおり、バンコクのデューティーフリーで買っておいた口紅とチップを渡した。交渉10分。あっさり4枚のチケットを手に入れることが出来た。バンさんの天使のささやきには、脱帽であった。我々の旅は、綱渡りをするような危ういものであったが、いつでも、バンさんやドクさんが希望を運んできてくれた。
ニャチャンでは、同じホテルに舞い戻った。ホテルのマネージャーも、我々の動向を心配していたらしく、しきりに周囲の状況をバンさんに聞いていた。とにかく、翌日の朝一番のフライトで出発すれば、全ては解決なのだ。私はそう思うと同時に、東京の編集部へ予定変更の連絡をしようとフロントにかけあった。何度かけても、電話は通じなかった。30分、1時間。待てど暮らせどつながらない。いらいらと待ちながら、事態はそう甘いものではないということが分かってきた。どういうことか分からない。とにかく、東京と音信不通の状態なのだ。その時東京では、運悪く、カメラマンの母上が倒れるという事態に見舞われ、編集部では必死になって連絡をとろうとしていたという。しかし、東京からの電話も不通。何処でどうなっているのか、皆目見当もつかず水面下で大騒動となっていたらしい。その夜、我々はやっと夕食らしい夕食にありついた。夕食が気になったのは、食事の始まる頃から雨足が強くなったことだが、もう台風は去ったと聞いていたので、安心していた。ミュージックバンドも入り、同席していた陽気なオーストラリア人も盛り上がり、久々に明るい晩餐となって、私もカメラマンも開放される思いだった。
翌朝、私は激しい雨音で、目がさめた。太い雨が地面を打ちつけている。顔を洗おうと私は蛇口をひねった。その蛇口から溢れ出たのは、泥水のような茶色い水であった。ミネラルウオーターで洗顔をすませると、急いでバスに乗り込んだ。飛行場へ駆けつけ、国内便を待った。しかし、飛行機は現れなかった。3時間ほど待ったと思う。結局、欠航となった。飛行場の職員の話では、ニャチャンは海沿いの飛行場であるために、天候が悪いと着陸が難しいのだという。その朝の雨の状態では、許可がでないのだとつけ加えた。我々は再び撤退を余儀なくされホテルへ戻った。「ウエルカム」ホテルのマネージャーだけが喜んで迎えてくれた。その日以来、我々は毎日、ホテルと飛行場を往復しなければならなくなった。この期間に何と4個もの台風が、ニャチャンを通過したのである。我々はその間、この街に足止めされる結果となった。勿論東京の編集部とは、音信不通のままであった。我々は遭難したのも同然の状態であったのである。
3日目、やっと雨がやんだ。今日こそという思いがあった。いつものように、待合室で飛行機を待っていると、遠くから飛行機のエンジン音が聞こえてきた。やっと脱出できる。私の思いは、ただそれだけだった。左上空から不自然なくらい鋭く急降下してきた飛行機は、目の前で飛び込むように着陸すると、思い切り滑走路をはずれ、なんとオーバーランしてしまったのである。それまで高揚していた私は、頭から水をかけられたような思いだった。飛行場の職員が、血相を変えて飛び出して行く。今日乗れる飛行機は、これしかない。私はとっさに考えていた。この飛行機に乗るか乗らないか、カメラマンやバンさんは自分の意思で決めれば良い。だが、もし、先生がこの便に乗ると言ったら、私も乗らなければならないだろう。様々な考えが私の頭の中で、交錯していた。「明日の便にしよう」先生は即決した。結局、飛行場の職員の判断で、その日は欠航となった。
こうした経緯を経て、我々はニャチャンを出発することができた。出発の前日、東京への連絡も無事通じることが出来た。怒り心頭の編集長に、ことのしだいを簡単に説明し、不可抗力で起きたことだとだけ伝えることにした。電話では、あまりに長い物語であるから言いつくすことは出来ない。
ニャチャンから飛行機が離陸する時、私はこの数日のことを思い返し、ぼんやりと考えていた。我々が豪雨に翻弄されて、超えるに超えられなかったのは、北緯17度線近辺であった。ヴェトナム戦争当時のアメリカ軍と同じだなあと思っていた。自然は地球の呼吸のようなものである。ヴェトナムを守りぬいたのは、この自然なのである。この自然の生業を懐柔し、その力を武器としてきたのだろうと思う。
結局、国道1号線を北上し、ハノイまで到達するという我々の計画は、つゆと消えてしまった。かつてのアメリカ軍のように、超えることは出来なかったのである。再びヴェトナムの地を踏むことがあるならば、私はもう一度このルートを辿ってみたいと思う。たとえ、雨になってもそうしたい。
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