1993年10月。この旅の目的は、ヴェトナムにおける古い窯跡を取材するためで、ほぼフィールドワークに近い行程が計画されていた。旅のテーマそのものが、やや特殊な分野のものであったこと、専門家の先生と共に行動すること、何よりも観光地ではなく、小さな村を訪ね歩くこと、2週間をかけてヴェトナムで唯一の国道である1号線を車で北上しなければならないことなどの条件を前に、誰が担当するのかが問題となった。当時、華やかな婦人雑誌に関わるフリーのライターたちにとって、何が起こるかわからないこのような仕事はリスクが多かった。雑誌現場からの2週間の不在は、確かにきつかったし、この記事を掲載する予定さえはっきりしないような状態で、出発しなければならないというのであるから、しばし考えるのも無理はない。何時掲載されるのかもわからない仕事をあえてすることはない、それほどまですることはないという気持ちが、私にさえどこかにあった。
しかしそんなカードを、私は引いたのである。後先考えずに、好奇心が先に立って思わず手を上げてしまうような、どうもそんなクセというか性分というのか、困った傾向が私にはあるようだ。振り返れば私の人生、いつでもその繰り返しだったような気がする。つくづくため息がでる。
ともあれ、現地とのFAXのやりとりが始まって2週間ほどして、出発の日を迎えた。これは、当時のヴェトナムの状況と取材目的の特殊性からいって、かなり奇跡的な準備時間といえる。というより、四の五の言わず行った方が早いという気分でもあったのだが……。同行する先生の尽力もあって、「押さえどころのポイント」だけはしっかりと押さえることができた。主要都市のホテルはきちんとしたクラスのホテルを押さえる、通訳は優秀な人をキープ、運転手は誠実な人を捜す。この3つのポイントは、後々旅半ばに起こった数々の危機を打開するための重要な要素となった。このヴェトナム以来、私は、婦人雑誌では考えられないような僻地への旅を何度も経験した。その折々、常に心に留め置いたのは、この時の、ヴェトナムの旅で学習した「押さえどころのポイント」であった。
我々の旅のルートは、日本からまずバンコク(タイ)に入り、ホーチミン(ヴェトナム)へ入るルートを選択した。現在では直行便も飛んでいるが、当時は、バンコク経由か、香港経由であった。バンコクで1泊。翌日ヴェトナム・ホーチミンへむかった。どんなことが起こっても対応できるようにと、私は心がけ準備をするとともに、小さな赤い手帳を用意した。この旅においての私の立場は、添乗員のようなものである。それぞれに何事か起きた場合、どのように速やかに対処すべきか、ただその事だけを要求されるような立場であるから、持ち歩けるような小さなメモ帳が必要だと判断し、この赤い手帳を選んだのである。薄暗がりな状況でもすぐにわかるような手帳が良い。ただそう思って、ポケットに携帯した。その手帳に最初に書かれていたのは、入国時に起きた騒動であった。
入国しようと思っていた我々は、パスポートのチェックを受けた後で質問を受けた。随行の先生は、慣れたものですんなり通過。通訳の女性を捜していた。しかし、私とカメラマンは、よく聞き取れない英語で質疑応答である。問題は、取材のために持ち込もうとしていたフィルムの数であった。つまり多過ぎるというのだ。国内で商売をするのではないか、あるいは、他に何らかのいかがわしい目的があるのではないかという疑いだった。汗だくになりながらの交渉のすえ、最後は、東京から持参した雑誌を見せて、やっと許されることとなった。その折、制服姿の検査官が、しきりにその雑誌を気にするので、その本を献上することにした。その雑誌は、女性ヌードのグラビアのある某有名週刊誌であった。我々はこの一冊に、というよりは、女性ヌードのグラビアに救われたのかもしれない。
「私の名前は、バンです」そう言って声をかけてくれたのは、通訳の女性だった。穏やかな表情の中年の女性である。その後ろで、ニコニコしながら私たちを待っていてくれた若者が、ドクさん。誠実かつ有能な運転手である。
到着して、最初に御願いしたのは、ベトナム全土の地図を手に入れたいということであった。東京では手に入らなかったために、これからどのようなルートで進行するのかという実感がどうしても乏しかった。『まず、地図を手に』というのは、未知の状況における最大の武器。私はいつもそう信じていた。その旨伝えると、早速、街の取材とその目的のために、我々の乗ったミニバスは走り始めた。
自転車とシクロとバイクの群れの中、縫うようにバスは走る。走り始めてやっと、私はこの街を意識することができた。騒音と群集。その中に見たのは、爆発するような活力だった。我々がヴェトナムを訪れたのは、1993年。社会主義でありながらも、ドイモイという経済の開放政策が実施されて3年目。本来、商魂たくましいといわれるヴェトナム人気質に合って、街そのものが大きなエネルギーとなっていた頃である。
外国人を案内する立場である、バンさんには、しなければならないことがあった。我慢してくださいねとバンさんは私の耳元でささやいて、我々を促したのは、戦争証跡博物館など、ヴェトナム戦争を伝える場所であった。実際に使われた戦車や大砲、そして撃ち落されたアメリカ軍の戦闘機の残骸を目の前にすると、この戦争は確かな事実であったのだと認識させられた。そして、安穏とここにいる自分の存在。その落差に、おろおろするような戸惑いがあった。何よりもつらかったのは、サイゴン教会の入り口で、物乞いをする母子の姿であった。混血と思われるその母子に、気にもとめず人々は通り過ぎる。この教会の正式な名は、聖母マリア教会。19世紀末に建てられた赤煉瓦造りの優美な教会である。母なる聖母マリアをしても救えぬものが、ここにはある。すがることしかできない人間がいるのだと私は感じた。
マロニエとアカシアとコロニアル風の建物。インドシナという響き。亜熱帯の湿気と熱さ。美しい街でありながら、ケロイドのような傷跡をもつ街であった。少し意気消沈した私をみて、バンさんは、ある場所へ案内してくれた。丁度4時頃だったと思う。レ・フォン・ファン高校。終業のベルとともに制服の学生たちが校門のところへ集まっていた。男の子は、白いワイシャツに紺のズボン。女の子は、真っ白なアオサイ姿である。校門の前には、子どもを迎えにきた親たちがマロニエに寄りかかりながら開門を待っていた。ベルが鳴る。開門。溢れ出るように学生たちが外へでてくる。夢中でおしゃべりをしながら、女の子たちは校門のところから散らばって行った。黄昏の中でアオサイの裾がゆれるその光景は、まるで白い蝶々がマロニエの並木と戯れているような美しい光景であった。私の胸に熱いものが満ちてくる。ここに、未来があるのだと、バンさんは言いたかったのだろう。
ホーチミンでのホテルは、現在もあるのだろうか解からないが、フローティングホテルだった。サイゴン川に係留するようにあった船のホテルである。翌日、我々は国道1号線を北上した。
本日曇天。1万ドンで購入したヴェトナムの地図を広げて、路線確認をしていると、バンさんが覗き込んできた。ホーチミンからハノイまでの国道をゆっくりと、人差し指でなぞると「ヴェトナムは、天に昇る龍の姿をしているでしょう」といった。そういえばゆったりとしたS字型をしている。そして、長い長い歴史の中で、権力支配ではなく国民自らの手で統一を手にしたのは、今世紀のこと。それもあのヴェトナム戦争が終わって、初めて一つになったということも知った。
ホーチミンから郊外へ出ると、ユーカリの並木が続いていた。しかし、ミニバスは爽快に走るというわけにはいかなかった。当時、国道1号線の道路事情は、けっして良いものではなかった。道路は穴ぼこだらけ。その穴をよけるように走るためにスピードが出せないのである。バンさんにいわせると、修理するための機械は、アメリカ軍が置いていったのであるけれど、それを管理し活用するためには、あまりにもすべてが不足しているとのことだった。この際、のんびり行こう。そんな覚悟ができた。国道1号線は、ホーチミンを出ると、東にむかって走り、海沿いに出る。その道すがら、小さな屋台が目についた。休憩をかねて最寄の屋台へ立ち寄ろうということになった。我々が車を横ずけしたのは、ザボン売りの屋台だった。若い夫婦が、丁寧にザボンを並べている。ドクさんの交渉で、両手一杯のザボンを確保できた。ものはためしと、皮をむき始めると、甘酸っぱい香りでミニバスの車内がいっぱいになった。私は少しばかり酸っぱい幸福を堪能することができた。このようなザボンをはじめとして、色々なものを売っている。感動したのは、バンミー(フランスパン)である。注文によっては、何か揚げ物のようなものを挟んでくれるらしいが、私はそのままのパンを買い、カメラマンと分け合ってほおばった。ウマイ!思わず顔をみあわせた。外側パリパリ、中しっとり。紛れもなく、フランスパンそのものである。これ1個1000ドン。このまま日本へ持って帰りたくなった。
ハンティエン村へ入る頃から、窓から見る風景の中に、建設中の家が多いことに気がついた。ドイモイの経過が良いことが伺える。経済的に楽になってきた人々が家を新築しているのだという。家を建設する場合、ヴェトナムでは、基礎に赤レンガを使う。建設ラッシュの状況に呼応するように、大きな煙突をもつ煉瓦工場が現れた。どんな窯なのか、どんな原料を使っているのか、さっそくリサーチすることになった。工場とはいえ、だいたい家族で働く家庭内工業である。窯は、横たわるように作られた、やや傾斜のある穴窯だった。男手が土をねり、女手が成型し、家族総出で運搬するといった、最もシンプルな工場形態だった。いったん煉瓦を窯に入れてしまうと、焼成が完了するまでは
何もすることがない。男たちはハンモックで昼寝をし、女たちは洗濯やら炊事やらに追われるのだ。相手にされない子どもは、ぼろぼろのTシャツにはだしで駆け回っている。ここには、健康であたりまえの、何の変哲もない家族の姿があった。家の入り口で、椅子に身を委ねながら、細い目でうれしそうに眺めている老人の姿を、私は忘れることはできない。
夕方までにはニャチャンへという予定があったので、先を急ぐことになった。道路は海岸線に沿って北上する。ファンティエットからファンランあたりに入ってきた頃だった。海岸に面白いものをみつけた。大きな丸いお椀のようなものだった。聞いてみると、竹で編んで作った漁師の舟だという。
人が入れるくらいの大ザルの表面に、漆が幾層にも塗られ、防水加工された舟だった。ここに、網をのせ漁をする。この漁は、バランス感覚がものをいう。異邦人に気がついたのか、女の子がさっそく商売を始めた。10歳くらいだろうか。地面に、貝殻を無造作に並べて呼び込みを始めた。南洋の海独特の大きな巻貝が散らばっている。この調子だと、石でも砂でも売ってしまうのではないかなと思わせるような勢いに、何だか可笑しくなった。ここで買わなければ、後ろ指さされるようで、どうにも居心地が悪く、とうとう私は貝を買うことにした。500バーツなり。ニャチャンへ近づくほどに、天候が悪化するようだった。風にのって雨が追いかけて来るようだった。我々は背中を押されるように、ニャチャンの街へ入った。(後編へ)
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