箱詰めにされていた中央アジアへの旅
ある日、戸棚の奥からベコベコになった古い箱が出てきた
箱の蓋には、「ソビエト連邦」の文字。そうだ……
かつてあった大国ソビエト連邦のシルクロードへ、20数年前私は旅をした。
文・撮影 高橋伴子
世界地図が変わった
得意な科目に地理があった。「話を聞かない男と地図の読めない女」という本が、近年ベストセラーとなったが、その題名の限りで言えば、私は、地図がよく読める。体の中に磁石があるような、原始的な本能があるのかもしれない。だから、本を読むように地図を読んでいることが多い。中学時代から、私にとって地図は絶対的なもので、揺るぐことのない指針のように思っていた。世界地図はどこにいっても、どんなときにも変わることのないものなのだ、『地図が変わる事は、歴史上でのこと』という思い込みが、私の考えの中にすり込まれていた。が、地図は、変わってしまったのだ。私が生きているうちに世界地図が塗り替えられるなんて、思っても見なかった。1989年。世界は大きく動き、同時多発的にそれまでに認識が崩されていったことは、記憶に新しい。ベルリンの壁が壊され、東西ドイツが統合され、ソビエト連邦が崩壊した。ユーラシア大陸の広範囲を占めていたソビエト連邦。二十歳のとき、私はそこへ旅をした。
偶然にも発見した古い箱の中には、20数年前体験したソビエト連邦への旅が収められていたのである。
今では、「卒業旅行」という言葉も珍しくなくなった。別段特別なことではなく、高校や大学の卒業を記念して、それまでの日々の思い出と区切りをつけるように、旅をすることである。私が決意した旅も、卒業旅行であった。まあ、今となって考えれば巣立ちの準備ということかもしれない。私もそうだった。世間知らずで甘ったれの生き方しかしていない大学生に他ならないない自分に、その当時愛想がつきていた。卒業が近づいてくると、それまで一緒に行動していた友人たちは、就職活動へ邁進するようになった。やけに物分りの良い、判で押したような良い子になっていく矛盾。親のコネで面接を受ける友人。「いっそのことお見合いして、永久就職かな」と煙草をくゆらせながら平然と語る友人。そんな中で、私は孤立していた。働いて仕事を身につけたい、という思いだけが空回りしていた。卒業当時、女性の雇用は恵まれた時代ではなかった。『通勤は自宅通勤が条件』というハードルのために、未来への切符を、私はなかなか手にすることができなかった。そんな中、私は、たった一人で卒業旅行へ旅立った。パスポートを初めて取得して選んだのは、ソビエト連邦であった。
あのシルクロードを体感したい
私は古いものが好きである。それは、若い頃からのことで、理由なんていうものはない。子供の頃から私の周囲には古いものばかりがあったからなのか、新しいものよりも古いものの方が安心するのである。端的なことをいえば、体質なのだと思う。大学の1年生のときだった。母に連れられて奈良へ行った。目的は、毎年秋に開かれる正倉院御物の展覧会へ誘われたのである。私はそこで、「シルクロード」を実感した。ただ、歴史の教科書の中のことではない、歴然とした事実としての有様を、実感したのである。正倉院宝物の大陸から運ばれた名品は、ここで上げるまでもなく数々あるが、その一つ一つに感動したばかりではなかった。1千数百年も前に、シルクロードと呼ばれる一本の道が、これだけの文化を渡来させたということに、私は震えたのである。歴史の教科書の中で、たった数行で語られたことが、現実としてそこにある。それが、私には感動であったのだ。この体験が、パスポートを取得するきっかけとなったことはいうまでもない。
「せめて、シルクロードの一端を見てみたい」という相談をもちかけたとき、親は呆れ顔であった。ドゥシャンペ、サマルカンド、タシケント、ブハラ……親にとっては聞いた事もない地名。「一体何処へ行くのだ」という驚きだったのだと思う。その上、社会主義であるソビエト領。そのとき親は「娘はアカになったか」と思ったそうである。
とにかく私は出発した。ちょっと古ぼけたアエロフロートに乗って。
傷だらけのりんご
海外は初めてであることを考えて、私は団体旅行を選択した。12日ほどの行程だったように覚えている。現在では、私が体験したようなことはありえないと思うが、あのときのアエロフロートの印象は、今思い出しても鮮明である。国内線の飛行機は、すでに何度か経験済みであったから、飛行機に乗るといった感激はそれほどでもなかった。ソビエトの飛行機に乗るということが、私には問題であった。機内で出迎えてくれたスチュワーデスは、恰幅のよい中年のオバサン、いや、女性であった。彼女に促されて自分の席まで案内されたのであるが、何というのか、婦人警官に補導された学生のような気分。自ずと腰が低くなる。オンタイムで出発し、安定飛行となったので、メモをとろうとテーブルを出した。何か変だった。テーブルが水平ではない。扱い方が違うのか……ソビエトの飛行機は、特殊な方法があるのか……周囲を見渡した。やり方を間違っていたなら恥である。しかし、特別なことはしていなかった。ごく当たり前に取り出している。右に傾いたテーブルを睨んでいると、隣に坐ったおじさんが一言語りかけて来た。
「う〜ん。社会主義の国へ行く場合のアドバイスですが……我々が常識と思うことの多くを期待してはいけないんです」とのこと。
これは、その後の旅の、共産圏における忍耐を教えてくれたアドバイスである。その忍耐は、すぐにやってきた。丁度、シベリア上空あたりでのことだった。機内食である。パサパサと水分のないパン、得体の知れないシチュウもどき。石のようなクッキー。そして、小さな林檎が1個。
「とにかく食べておいたほうが良いですよ。あっ、クッキーは小さく割ってから食べた方が無難です。歯が折れそうだから。日本から出発する便はずーっと良いほうなんです」
隣人は、かくもやさしく私を促してくれた。しかし、口にしたのは、ひと匙くらいのものだったように記憶する。林檎ならまともだろうと手に取ったのだが、それもいつもの林檎ではなかった。運ばれるうちにあたったのだろうか、傷だらけである。アエロフロートといえば、傷だらけの林檎という連想が、そのとき以来私の中に出来てしまった。
「果物は貴重です。フルーツがついているなんていうのはご馳走の部類です」その言葉に、私はかぶりついた。酸味のきいた林檎が口の中に溢れていく。
あのシルクロードを体感したい
社会主義的価値観の洗礼を受けながら、いよいよ中央アジアへ移動。タシケントへ向かった。国内線の飛行機は、国際線のものとは違ってやけに小さく見えた。モスクワから南下し、キジルクーム砂漠を越え、ソビエト領ウズベク共和国(現在、ウズベキスタン)へ入る。そして、その途中、我々の飛行機は、雷雲にぶつかってしまった。
「操縦桿を握っているパイロットは、空軍出身者ですから間違いはないですよ」気休めともいえる言葉をかけていたツアーコンダクターが、一番青ざめているようだった。それほど、揺れに揺れた。空中分解になる。短い人生だった。などと思いを巡らし、腹をくくって覚悟を決めていたときだった。機体はまるで墜落するように降下し始めると、一気に着陸した。スチュワーデスは、何事もなかったように、機内放送をし始めたのである。『再びお会いできますよう……』などと言っているようだった。その放送を呆然と聞きながら、私はタシケントへ降り立った。
首都タシケントは、紀元前2世紀まで溯る長い歴史をもつ。シルクロード交易時代においては、周囲を大きな砂漠に囲まれた地形に位置するオアシス都市であった。中国の歴史書の中にもしばしば登場するというこの都市は、『石国』という名で呼ばれていた。しかし、都市としての形状が現在のようになったのは、帝政ロシアの支配下に入ってからだという。それまでのタシケントは、シルクロードにおける中継貿易で栄え、中央アジア最大の町として存在した。タシケントをロシアが制圧したのは、1867年。トルキスタン総督府をおいて、中央アジア全体の植民地支配の拠点としたのである。
タシケントは、地下鉄が縦横に走る大都市であった。砂漠の隣にありながら、街路樹あふれる街並みに、オアシスの町としての豊かさを見るようであった。旧ソ連時代においては、モスクワ、サンクトペテルブルグ、キエフに次ぐ第4の都市であったということがうかがえる。私が大都市としての印象を受けたのには、理由があった。1966年におこった大地震によって、それまでにあった建物の大半が壊れたために再建され、高層住宅を増築、新しい都市に変貌した街並みを見ていたからである。再建された建物は、ほとんどソビエト風なので、歴史を担う町としての面影を見ること出来なかった。唯一、市内北西部の旧市街だけが、土壁の家や入り組んだ道が残り、シルクロードの面影を残していた。
タシケントへ着くと、通訳がもう一人加わった。今回のツアーの日本語通訳として、モスクワ大学日本語科の先生がついていた。時々日本語であるならば、知られる事はないと思うのか、ソ連の体制批判を時折加えながら通訳をしてくれた。タシケントでは、その先生も役に立たないのである。共通語として、一般庶民はロシア占領以前から使っているウズベク語を使っているという。文字の基本になる文字はロシア語そのものを使っているのであるが、文字の並びがまったく違うのだという。通訳自身も、読むことも出来ないのだ。その結果、ウズベク語からロシア語への通訳が必要となるため、我々には、二人の通訳がついたのである。それでも、どんどんロシア化が進み、人口の3〜4割りがロシア人になりつつあると言っていた。
近代的なタシケントの街中を、そこそこ自由に歩くことができた。公園の一画には、小さな露店が点々と店を広げていた。本を売る店が多いことに気がついた。その店の一軒で、私は絵本を買った。ざら紙に素朴なイラストが描かれ、数行の言葉がそえられている。こんな粗末な絵本は見たこともなかった。日本円で、150円くらいだったように記憶している。買った本を開いたり閉じたりしている私をみて、通訳が話し掛けてきた。
「庶民が目にする週刊誌とかゴシップ誌などはほとんどありません。子どものための本もこの程度ですね」
社会主義が理想とするのは、万民すべてが分け隔てなく平等に豊かに暮らせるということなのだと私は思っていた。だから、安心で理想的な環境なのだろうと思っていたのだ。しかし、何かが違っているように思えてならい。背中合わせにある権力と自由の存在を私は感じていた。
 タシケントの歴史を垣間見る場所として案内されたのは、イスラム文化をそのまま残す、イアム・アル・ブハラ・メドレセやクケリダシュ・メドレセ・カファリ・シャシー廟などのイスラム建築だった。また、16世紀にタシケントを支配していたバラク・ハンが造らせたユーヌン・ハン廟。観光をしていて、私はあることに気がついた。私と同じような顔つきのアジア人が住民の中にいるのである。バザールへ立ち寄ったとき、その人々が、朝鮮の人々であることが分かった。キムチを勧められたからである。そのことを、通訳に問うと、
「二つの答えがあります。ロシア人通訳としての立場で言うならば、移民してきた人達と私は答えます。しかし、アジアを研究する一個人としての答えは、極東から追われてきた朝鮮人が数十万人強制移住したという答えです。そのために、朝鮮人コルホーズという集団農場まであるのです」
地続きの大陸に生きることを、遥かに思っていた。アレキサンダー大王やジンギス・ハーンが走り回った歴史上のことを思い描いていたのである。日本はある意味で、稀有な国なのではないかと感じた。四方を海で囲まれた孤立した国であるがために、文明が遅れがちであったとはいえ、海は、日本を守る自然の要塞であった。だから独自の文化を持ちえたのである。その時、実感として納得できた。
青の都、サマルカンド
タシケントからおよそ300km。サマルカンドは、最も印象に残った町であった。好機を与えられるならば、迷わずこの町を選び再び訪れたいと思う。この町は「東洋のローマ」「イスラム世界の宝石」ともいわれた都である。タシケントと同様、シルクロードの一大中継地点として、名をなした。町は、チムール帝国の盛衰の歴史を刻む遺跡と一体化していた。コバルトブルーのイスラム聖堂が数多く残る町。ゆえに、青の都とよばれたのである。
町の起源は、紀元前まで溯る。BC10世紀、シルクロードのオアシス都市として発展し、キャラバンの交易地点として、東西の文明が交錯した場所であった。アレキサンダー大王、トルコの制圧、ジンギス・ハーンの侵略を、この町は体感してきたのである。幾度となく廃墟になりながらも、オアシス都市としての重要性から、14世紀チムール帝国時代に全盛を迎える。それは16世紀まで及ぶ、栄光であった。サマルカンドにのこるイスラム建築の大部分は、この時代に建築されたものという。
その足跡をたどるように、我々は遺跡をたどった。砂の広場とよばれるレギスタン広場。ウズベキスタン歴史文化美術館がとなりにある。ウルグベク・メドレセ。14世紀に建てられたイスラム神学校の講堂。今となっては正確に覚えていないが、その扉には「学芸を修めることは、全イスラム民の義務」と書かれていたように記憶する。他、青のモスクを幾つか辿った。私はここで、初めて、コバルトブルーという色そのものを知り、それが中国に運ばれて陶磁器の染付けの顔料となっていたことを知ったのである。コバルト顔料が金に値するとして取引されたという物語も、実感する事となった。圧倒する青に囲まれながら、私はコーランの響きによっていた。なんともいえぬ節まわしで語られるコーラン。時を刻む時計のように正確に、夜明けとともに唱えられる。風が吹けば砂をよび、町は黄土色になる。サマルカンドへ着いて2日目、マイクロバスに揺られて、町郊外にある遺跡を訪れた。世界で最も古い天文台跡。ティムールの孫、ウルグ・ベグのが造ったとされる天文台である。その頃は、小高い丘のようなところにあって、何も整備していない荒廃した遺跡であった。近年ではそこはきれいに整備され、記念碑のようになっていると聞く。そこから、サマルカンドを見渡せる名所へ行った。子どもが家畜にしている羊を追いまわしていた。乾燥している土地での暮らしのためか、皮膚はカサカサとしていて、皺で刻まれた手足をしていた。私がカメラを向けていると、近寄ってくるなり、丘の下にある民家を指差した。「あれがこの子の家らしいですよ」と通訳が教えてくれた。薄茶色に広がる大地に、土塀に囲まれた家が視界に入った。広い前庭があり、その中央に井戸らしき穴。パンを焼くというかまくら型をした竈。そして、家族が住んでいる建物と、そこに並列するように、家畜小屋が見えた。敷地の片隅には、杏の木があった。その景色をぼんやりと、時間を忘れて眺めてしまった。『どこでもいっしょだな。頑固な父親や口うるさい年寄りに囲まれて、あの子はそこで暮らしている。日本の農家と同じだ』ツアーメンバーが貸してくれた双眼鏡で、その子の家を覗いてみた。母親らしき人がパンの竈に歩み寄ってきた。羊飼いの少年を呼んで、その双眼鏡を覗かせた。『見えるかな。あれは母さんかな』そんな思いで見ていると、うれしそうに大声を上げて手を降り始めた。母をよんでいるのだろう。『ここだよ、母さん、見えるかい』なんて言っているようだった。
ホテルは外国人だけが泊まるホテルだった。1日目は我々だけで、実に静かで、シルクロードを堪能する夜だったが、2日目、ドイツ人の団体が大挙してチェックイン。大柄の彼らの大群を前にして、我々は押しつぶされるかのように行動しなければならなかった。ツアーのメンバーは、幾つかのグループに分かれて出かけることになった。本来一人で参加した私は、一人で行動してはだめかと通訳に聞くと、即座に却下。どうしようかと迷っている内に、多くは出発してしまう事体となった。フロントにいたのは、サマルカンドの通訳とドイツ人の男性一人と私だけである。覚悟を決めた。現地の責任者が一人いるのだから、この人を連れて行動すれば問題はないはず。どんな言葉も通じないので、身振り手振り、この3人で出発しようと強引に納得(してなかったと思うが)させて、タクシーの手配をホテルに頼む事にした。が、タクシーは、もうなかった。ドイツ人の団体の連中が使ってしまったという返事なのだ。そんなにタクシーがないのォ!嘘でしょ!言葉が通じていないこともあって、いくら食い下がっても応えはNO。そこに、である。昨日の羊飼いの少年がニコニコと満面の笑みで登場したのだった。自分の車で案内しようとことらしい。通訳は、しぶしぶ良いだろうと同意。3人はやっと出かけられると、意気揚揚と外に出た。だが……車はない。少年が指差したのは、彼のお爺さんが操る荷車であった。ドイツ人の男性は、私の肩を叩き『メルセデス・ベンツ!』と叫んでいた。その日、そのベンツで、バザールをまわり、チャイハナでお茶を飲み、少年の家を訪れ、日本まで食糧がなくならないようにと、パンを山ほどもらって、私のサマルカンドの一日は終わった。通訳とドイツ人の男性と私は、ずっとそれぞれの言葉でしゃべり続けた。世界平和のために、語り合ったと言っても良い。
20数年ぶりに発見したスライドフィルムは、ところどころにシミが出ていた。シルクロードの旅は、果たしてその後の私に何をもたらしたのだろうかと、今考えている。それはきっと、大地に足をつけて、自分らしく人生を歩む勇気を教えてくれたのだと思う。不器用だが、今も何とか歩いている。(了)
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