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| 物語が独特の食文化を生み、人々はそれを我が家の伝統の味としてきた。 下北半島は、確かにみちのくの地。 厳しい気候、貧しい食の歴史と思われがちであったし、当然その地を訪れた私もそう思っていた。けれど、そんなことはなかった。寄り添い、温かく育まれた本来の日本人の家族の姿とともにそこに生きてきた味は、いとおしく、懐かしい味であった。 この味を噛み締めながら、日本人の食文化の原風景を下北半島に見たように思えた。 |
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| モチ、けいらんがある。けいらんは、南部地方でよく作られたモチで、主として祝いの席によく作られ出されたものであった。そのモチの形状から、けいらん(鶏卵)とよばれたものだろう。卵形のモチの中にたっぷりと餡を詰め、冷たい出汁をかけて食する郷土料理である。 伝統的な郷土料理であるけいらんの背景には、川内町周辺にあった夜酒盛り(よじゃかもり)という風習深い関わりがあった。 秋の収穫が終わり、秋じまいの頃になると、娘達は一軒の家を借り切り、収穫物をそれぞれに持ち寄って料理を作り、語らい楽しむのである。娘のことであるから、本来外泊など許される立場ではないが、年に一度の夜酒盛りは、親も公認。この場は、娘達にとって村の男達と触れ合う場でもあった。若い衆はこの時とばかりに、目当ての娘の所へ出向く。夜酒盛りと称して娘達は、男達のためにニシメ、ニエコ、ナマス、そば、そして、けいらんなどといった手料理と濁酒を用意し、もてなすのである。囲炉裏を囲み、秋の夜長をはしゃぎ、騒いだという。けいらん作りが上手か否か。娘の人気はここで決まるのだ。 そして、朝、酒宴の余韻が残る中、男は帰途につく。その際男は、相手の娘の傍らに、もてなしのお礼にとそっと祝儀(お金)を忍ばせたという。粋なはからいで帰って行く事が慣わしとなったそうである。春から秋まで、休みなく野良仕事に精を出し、働いてきた娘達にとって、その金子は、唯一の現金収入であった。一人一人分け合って、娘達は晴れ着や下駄を買うために大切に使い、年の瀬を迎えたのだという。若者達の恋物語が幾重にも綴られた情景の真ん中に、存在したけいらん。甘からい味の所以はここにあったのだろうか。 |
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| 川内町に住む菊地ヨシさんは、いわばけいらん作りの名人である。菊地さんは、昭和55年頃、それまで家庭の中で、何の疑問もなく継承されていた郷土料理が追われる様に消えていく現実を前にして、心痛む思いがあった。この風土に生まれ伝えられてきた味を守ろうと、郷土料理けいらんに活力を吹き込んだのである。積極的にけいらんを紹介すると共に、常にけいらんを食べられる場所を提案し、旅行者にも味わえるよう町を動かしたのだ。現在、川内町では道の駅「かわうち湖」とスパウッド観光ホテルでけいらんに出会える。 「けいらんを多くの人に味わってもらうためには、美味しいけいらんの作り方を伝え、変わらない味を提供しなければなりません。けいらんの味の大切なところは、こし餡の甘さと生地のこしの柔らかさです。伝統的な味を伝えるための助言は、欠かせません」 独特なイントネーションで話す菊地さんの言葉は、力強かった。 名人菊地さんがけいらんを作る。モチ粉をボールにあけ、粉の中央にへこみを作った。そこへまず熱湯を流し入れる。粉を混ぜ合わせたところで、今度は、水を少しづつ加えながら捏ね合わせていった。徐々に粉がまとまって団子状に固まってくる。耳たぶくらいの硬さが基準。練りあげたら、一個500グラムくらいの大きさになるように、けいらんを作る。生地を取ると、その中央に餡を入れ手早く包んだ。紙を敷いた木箱に、けいらんが並べられていった。仕上げは、蒸し器。五〜六分かけて一気に蒸し上げる。 出汁は、昆布と椎茸からとり、そばつゆ程度の汁を作って冷やしておく。椀に蒸しあがった熱々のけいらんを盛り、汁を注いだ。箸を交差させながら、餡を出さないように包み切りをして、つるりと口の中に放り込む。餡で汁を汚さないように食べるのが、上品といわれるそうだ。外側が汁の塩味で、しみ出した餡が甘く口の中に広がった。舌はどちらの味を認識すべきか、戸惑っているようだ。対極的な味が重なり合うように出会って、やがて、けいらんの味となる。名人ならではの技を堪能した。菊地さんが幼い頃、家ではけいらんは蒸さずに茹でて置いていたという。暇さえあれば餡作りをして常備し、急な訪問者があっても、すぐにけいらんを作ってもてなせるようにしていたという。 |
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| 花モチは、けいらんと同様に米粉の生地に餡を入れたものを使う。大ぶりに作ったモチの中央に、色付けした生地をポイントするように中央にのせ、粉を打った専用の型にはめ込んで成型する。型からぬいて、笹をしき蒸し上げて完成させる。花型や桃型などに型どりされるので、型モチとも呼ばれている。多くは、桃の節句や春彼岸、花見などの宴席に用意されるという。愛らしい花モチは、その姿を眺めるだけでほほえましく、ハレの席では人気者である。 花モチも普通の家庭で、折々に作られていたものであるが、残念ながらそれも消えつつあるようだ。菊地さんが保存していた木型も、郷土料理を記録保存していた、畑中栄一さんから譲り受けたものだという。菊地さんにとっての宝物である。 |
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出汁は冷たく、けいらんは熱々に。
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南部地方一帯でよく知られるベコモチは、今から40年余り前に、誕生したモチである。ベコモチの原型となったものは、青森県全般でア作られていたクジラモチであった。 クジラモチは、5月5日の端午の節句に、子供の健やかな成長を願って供えられた祝いモチである。大きなクジラにあやかって、子供が元気に育つようにという大人の願いがあったのだろう。端午の節句には、塩漬けしたクジラの脂身の薄切りと数種類の野菜で作る味噌味のクジラ汁が、モチと共に添えられた。クジラモチは、モチ粉に着色し練り上げた生地を数種合わせて模様を作る。金太郎飴のような筒状のモチを作り、均等な厚さに切ったものを蒸し上げて完成さたものである。本来クジラモチは、「たばね」という簡単な模様が原型となっていた。昭和40年代に、米あまりのための減反政策を前に、米の消費を促すことと、伝統的な郷土料理を残そうという機運とが重なった結果、昭和47年頃から、高齢者の生きがい活動の一環として、クジラモチの技術伝承が具体的に動き始めた。画期的だったのは、ただその作り方だけを伝承するのではなく、新しい形のベコモチとして発信したことにある。大間町の梅村則子さんが核となってグループが構成され、ベコモチが開発された。すでに40年の時を経た今も、梅村さん達の技に間違いはない。現在ベコモチに関わりあっているのは、およそ20人。ベコモチの生産や実演講習で多忙な日々を送っている。 梅村さん達の作るベコモチが人気なのは、その模様の多彩さにある。使われる色は、全部で五色。紅(食用ビート)黒(インスタントコーヒー)黄(クチナシ)緑(抹茶)紫(山葡萄)といった身体に害のない食用素材で着色している。これらの色着色された生地が複雑に組み合わされて出来る模様は、絵のように美しく、口にするのも戸惑うほどだ。黒砂糖で、あっさり甘味をつけたベコモチは、軽くあぶって食べると美味しい。こみを作った。そこへまず熱湯を流し入れる。粉を混ぜ合わせたところで、今度は、水を少しづつ加えながら捏ね合わせていった。徐々に粉がまとまって団子状に固まってくる。耳たぶくらいの硬さが基準。練りあげたら、一個500グラムくらいの大きさになるように、けいらんを作る。生地を取ると、その中央に餡を入れ手早く包んだ。紙を敷いた木箱に、けいらんが並べられていった。仕上げは、蒸し器。5〜6分かけて一気に蒸し上げる。 出汁は、昆布と椎茸からとり、そばつゆ程度の汁を作って冷やしておく。椀に蒸しあがった熱々のけいらんを盛り、汁を注いだ。箸を交差させながら、餡を出さないように包み切りをして、つるりと口の中に放り込む。餡で汁を汚さないように食べるのが、上品といわれるそうだ。外側が汁の塩味で、しみ出した餡が甘く口の中に広がった。舌はどちらの味を認識すべきか、戸惑っているようだ。対極的な味が重なり合うように出会って、やがて、けいらんの味となる。名人ならではの技を堪能した。菊地さんが幼い頃、家ではけいらんは蒸さずに茹でて置いていたという。暇さえあれば餡作りをして常備し、急な訪問者があっても、すぐにけいらんを作ってもてなせるようにしていたという。 |
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| 料理の味の基本、うまみは、料理に使われる出汁のうまみによるところが多い。そのうまみを大きく分けると、煮干系と昆布系に分けられるのではないだろうか。特に昆布は、関西を中心に好まれ、高い品質の昆布が常に求められている状態がある。本州で収穫される昆布の中で、その品質において、他に追随を許さない高品質の昆布が、下北半島のてっぺんに位置する小さな町で収穫されている。 アイヌ語の発音からつけられた地名といわれる奥戸(おこっぺ)は、津軽海峡に面した漁業の町である。ここから大間町にかけては、昆布漁の盛んな地域としてもよく知られている。 昆布漁は、早朝出漁し、一時間ほどかけて収穫する。港の広場には、収穫された2年物の昆布が一面に広げられていた。昆布は重ならないように、一枚一枚丁寧に敷き詰められ天日干しされている。すべてが手作業。手間のかかる作業の連続だ。時雨てくれば、昆布の周囲に雨避けのテントを大急ぎで張らなければならない。休みなく人が動いていた。そんな中、今年は、例年にない豊作だ、と明るい声が返ってきた。 昆布漁は、7月から始まり、せいぜい10月までの漁といわれる。大地で芋や野菜を作付けするように、海の中の畑を耕すようにして、質の良い昆布が育てるのだという。10月、年内最後の漁を終えると、11月には昆布の胞子つけが行われる。それから3かた4ヶ月かけて胞子が付着すると、翌年の3月には、1年ものと呼ばれる昆布に成長する。昆布は等級で区分けされるので、収穫されるのは2年ものが中心となる。ある程度の大きさが必要条件である。完全に干し上がった昆布は、「耳」とよばれる昆布の周りの部分と、根昆布部分をきれいに切り取り、検品され出荷されるが、日本海の交易の歴史からなのか、昆布はすべて福井県敦賀の港に集められ、そこから全国へ流通するという。大間・奥戸周辺で捕れた昆布は、良質な甘味があるとされ、全国でも人気のブランドである。 11月が過ぎると、本格的な冬の季節を迎える。連日風速20メートルの風が吹き荒れ、漁もできず、町全体が冬眠するかのように、じっと耐えるのだという。1年のうちで、たった4ヶ月の収穫が、人々を支えているのである。 |
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| 昨今は、日本国中大変なラーメンブームである。九州から北海道まで、個性豊かなラーメンが顔を揃え、その味を楽しめる。ラーメンへの独自のこだわりをもつ人達が、頑なに追求し続けるのは、そのスープの味である。 スープは、様々な食材から時間をかけて抽出される。日本人が好む、さっぱり風味のスープには、その味を引き立てるための隠し味の一つとして煮干が使われている。 その業界で、こくの良さで高く評価されているのが、脇野沢村九艘泊(くそうどまり)で作られている焼き干しである。 マサカリ形の下北半島。ちょうどマサカリの刃の、下部分に位置するのが脇野沢村。陸奥湾を左手に見て海沿いの道175号を走ると、その突き当たり、最も奥にある村が九艘泊である。ここ一帯に点在する村々は、ほとんどが半農半漁。海岸線まで迫ってくる山を背負いながら、陸奥湾の恩恵を受けている。主な漁業は、帆立貝の養殖。我が物顔のかもめを追うように行くと、本当に道はなくなった。深く切り込んだ湾を囲むように住宅が点在している。全部で40戸の小さな集落九艘泊は、かつて源義経がこの地まで落ち延びてきたという、義経伝説が潜む場所である。この村の名もここに由来しているといわれている。この村で、焼き干しを作るのが櫛引利三郎さんである。赤銅色に日に焼けた顔、はちまき姿、骨太の二の腕。まさに海に生きてきた男の姿である。櫛引さんの言葉によると、焼き干しは、大正時代の初めの頃から始められたという。焼き干しに使われるのは、片口イワシ。定置網で漁をするという。 漁は、毎年7月20日頃から始まる。その日の天候によってそれぞれだが、ほぼ毎日の作業だ。片口イワシは群れて回遊するので、その群れをねらって鴎が集まってくるのを見計らいながら網をかけるのだという。 「水揚げした片口イワシは、頭と内臓サ取って、水洗いする。気温が、そうさなあ、22〜23度で、風のある日を選んで、イワシを日干しにする。カラカラに乾かさなければだめよ。カビがはえたら商品にならんもの。そして、一端冷凍保存して、9月になったら、一気に焼き干しサするのよ」 風と気温。この地域ならではの自然状況が、あってこそである。乾燥したイワシは、竹串に刺して、炭火で丹念に炙る。魚の表面がカラッと焼けて、香ばしくするために、どうしても炭でなければならないという。炭は、岩手産のナラの炭を使う。この炭を櫛引さんは、年間100表近くの量を買うと聞いて、驚いた。いったいどれほどの量の焼き干しが、ここでつくられるのだろうか。さらに驚きとともに感動するのは、100パーセント手仕事ということである。家族総出で行われる作業なのだ。櫛引さん曰く、名人技に近いベテランの熟練工は、81歳になる櫛引さんの姉だという。 こうして作られた焼き干しからは、やや甘くこくのある出汁がとれる。塩じゃっぱは、この焼き干しの出汁で作る汁ものである。本来は、冬の陸奥湾でとれた寒ダラを使って鍋物にするが、近年タラは減少し、使う魚は様々になった。味噌仕立てが一般的なのだが、漁師達は、この味を嫌う。『漁にミソがつく』と縁起を担ぐのだ。味噌に代えて焼き干しを使うのである。下北半島を巡り、人々が語った『丘がないても、海が笑う』という意味を体感することができた。ここに生きぬくということは、厳しい自然条件がもつ負の要因を変えてゆくということであった。対立ではなく、共存すること。懐の広さを実感する旅であった。 |
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