本州の最北端。三方を津軽海峡、太平洋、日本海に囲まれた地域。青森県はここに位置する。飛ぶ鳥の目から眺めるように鳥瞰すると、この地に与えられた厳しい自然環境を明快に理解することができる。
奥羽山脈の北の起点である八甲田山を頭(かしら)とするならば、左手に津軽半島、右手に下北半島、そしてその両手の懐深く抱くように、陸奥湾を有する地形が、青森県の姿である。江戸時代、幕府によって奥羽山脈の西側、津軽半島を中心に津軽藩領、下北半島を有する東側を南部藩領とに分け、統治された。八甲田山の偉丈夫ともいえる山並みによって形成された気候は、津軽と南部(下北)を、明らかに違った性格をもつ大地として創り上げた。ゆえに、この二つの地に育まれた食文化は、ほとんど同じ緯度にありながら、ただ一つの山脈を越えただけで、違った味わいをみせている。
津軽地方は、岩木川の土砂沖積によって出来た津軽平野の米作。かたや南部地方は、八甲田火山群の火山灰によって創られた土壌で、畑作が中心となった。津軽の豪雪に対して、南部は、比較的積雪が少ない。この状況の差が、基本的に産出される農作物の種類の違いとなり、それぞれの地方における食生活の違いを生み出したといえる。しかし、ここにおいて語らねばならないのは、南部の逃れられない気候条件「やませ」についてである。
春から夏にかけて太平洋側に吹く低温の偏西風であるやませは、霧をよび、一帯は異常低温となる。寒い夏、冷害である。南部が雑穀と根菜類を中心とした畑作であるのは、この気紛れなやませと共存する知恵であった。南部の人は言う。「丘が泣いても、海が笑う」畑が冷害だったら、海が救ってくれるというのだ。南部の大地に粘り強く実るのは、馬鈴薯(じゃがいも)。やませに抗うことなく懐柔し培ってきたいもの食文化は、南部地方に体系づけられた。まずは、この馬鈴薯から、みちのくの食の原風景を求めて旅を始めたい。
八甲田山を背負い、対する太平洋側に500メートル級の山々が連なる横浜町近郊の畑作地帯は、一面にじゃがいも畑が広がっていた。明治時代、飢饉のための救荒食として奨励されたじゃが芋の生産によって、芋粉をこねて作る芋モチが誕生した。
陸奥湾にそって走るJR大湊線陸奥横浜駅。下北半島のほぼ真ん中にある横浜町は、「菜の花に包まれた町」として有名である。みちのくの遅い春の一時、この町は黄色一色に塗り込められると言う。菜の花、つまり菜種。菜種油を取るための菜の花畑が一面に広がるこの地域ならばこそのことと、ただそう思っていた。
「主役は菜種ではねえぇべサ。馬鈴薯ヨ」
老人は南部訛りを精一杯標準語に直し、教えてくれた。つまり、この地は、本来馬鈴薯(じゃが芋)の作付けを基本とする畑作地帯である。じゃが芋の収穫は、遅くとも8月の初め頃まで。9月に入ると、掘りかえされた畑に菜種を蒔く。菜種が終われば、土を攪拌しながら堆肥を入れ、再び種芋を作付けするのだ。つごう一年、この風土に合ったじゃが芋と菜種を輪作するのである。負の要因ばかりが先にたつ南部下北地方。決して肥沃ではなかったこの地を受け入れ、人々は、その知恵を駆使して生き抜いてきた。大地を耕すその姿に、出会うことになった。
高橋招太郎さんのじゃが芋畑にお邪魔した。親戚一同寄り合って、加工用じゃが芋、ワセシロ、トヨシロの最後の収穫である。畑を掘りながら収穫するポテトハーベスターという機械が、10アールをおよそ一時間で収穫するという。食用じゃが芋は、全体の比率からいって、約一割程度。メークインと、この地方特産のキタアカリが主な種類である。
この地域は90年ほど前、高橋さんの祖父の時代に入植し開墾したという。当初からじゃが芋は、やませがおこす凶作に対しての救荒食として主要農産物であった。南部の元凶は、常にやませなのだ。そう思っていた私に『やませは悪さばかりでねぇヨ』と高橋さんは日焼けした顔をほころばせ言った。冷たい風に痛い目に合うなら、風を避けて土の中で生きる作物を選べば良いという。じゃが芋を始めとして、長芋、牛蒡、大根、人参など、根物と呼ばれる野菜を、多く作るという。
『小昼にすッペ』という一声に、作業の手が止まった。農作業での休憩時間にとる軽食を、小昼(こびる)という。小腹しのぎの携帯食は、お菓子類に加えて、蒸かしたじゃが芋、芋の粉で作ったベコモチ、大豆から作るマメシトギなど、様々なモチがあった。芋を粉にして保存する知恵が暮らしの中に生まれ、必要な時必要な分をこねて食するという食生活が出来上がったのだ。それらを取り込んで、ここに多彩な芋モチ文化を今も継承しているのである。
すべての原動力は、あっちゃ(母さん)たちの力
じゃが芋は、今更いうまでもなく、実に多様な食べ方が出来る芋である。生のじゃが芋は、そのまま煮たり蒸かしたり、揚げたりと日常茶飯に料理され、日々の惣菜となって我々の食卓を楽しませてくれる。だが、じゃが芋はただそれだけではない。その知恵を、南部下北地方にみることができた。
この地方に生活する限り、人々には凶作による飢饉に対しての危機感が常にあった。そのために、米の代用食として粉状にした芋粉を保存食として蓄えたのである。その習慣はつい最近まで残っていたという。その粉を目の当たりにする幸運に恵まれた。保存するためには、凍み芋、腐れ芋、かんなかけ芋といった加工法があった。凍み芋は、くず芋を丸のまま冬の間外気に投げ出し凍らせた芋を使う。水をかけながらなおも凍らせて冬を越す。春、溶けてきた芋を薄く切り、川の水で充分さらしてから盥に移し、赤い水が出なくなるまで水変えをする。次に、笊に上げしっかり乾燥させ保存する。凍み芋は、丸のまま凍らせるために、芋の中の澱粉はそのまま残っているのが特徴だ。
腐れ芋は、夏の暑い時期に芋に筵をかけ人工的に腐らせる手法である。腐って醗酵してきたら、手で押しながら皮をむくが、鼻がまがるほど強烈なの臭いがするという。皮を剥いた芋は、細く切り水にさらしてから乾燥させる。この手法は、南部地方全域にあった習慣であった。南部地方の食文化に詳しい西山和子さんによれば、この保存方法は、じゃが芋の原産地である、南アメリカ・アンデス地方のインディオ達の食生活の中にも、同様な習慣を見ることが出来るのだという。
最後にかんなかけ芋は、綺麗に洗ったくず芋をかんなで薄くスライスする。分かり易くいえば、現在我々が口にするポテトチップスのような要領である。このスライスを樽に入れてしっかり水でさらし、アクをとってから、カラカラに乾燥させ保存する。かんなかけは、薄くスライスする分、やや澱粉が逃げる。
このように自然を上手に利用し、多くの手間と時間をかけて作られた。これだけ手を加えることによって長期保存を可能にしてきたのである。これらじゃが芋の保存食は、大概粉食として使われるのが主である。乾燥した芋を杵でつき、粉にしてから、湯か水でこねて芋モチを作る。餡を入れたり、じゅね(荏胡麻)で和えたりと調理工夫されて、日常食として伝えられてきたのである。
現代においては、前述したような保存用じゃが芋を加工する人は、すでになくなったといってもよいだろう。その姿がどんなものだったのかということを、なかなか知り得ない状況となった。そんな中で、西山さんの手元には、昭和27年に作られたかんなかけ芋と昭和58年に作られた凍み芋が保存されていたのである。奇跡ともいえることなのだが、これらは昭和50年代に、西山さんが知人の家で発見したものであった。西山さんは、県庁に勤めながら、南部地方の伝統的な食文化を記録調査することで、地域の活性化を目指そうという思いがあった。そのために、各地域の古い家々に出向くとかならず、この保存食について尋ねていた。ある時、知人宅で、そのことに話がおよぶと、知人は、穀物小屋の天井の張りにくくりつけてあったかんなかけ芋を思い出した。『嫁入りした時、姑さんが凶作の時のためにとっておく』と言っていたのは、何と昭和27年に作られたものだった。
この粉を使って、芋モチを作る。時を重ねた粉は茶色く変色したものの、何ら遜色なく、実に美味しい芋モチに再生したのである。見事な先人の知恵がここに証明されたのだ。
現代では、保存の苦労もなく、身近に手に入る芋粉を使って、芋モチを作ることが出来るものの、都会型の食文化への変貌は、この地にも見られることとなった。それでも、暦の節目節目の時に、ハレの時に、ケの時に、事あらば年配者達を中心に、芋モチを作る姿が幸いにもまだあるという。
左 凍み芋 昭和58年作製。
右 かんなかけ芋 昭和27年作製。
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