銀座路地裏ワンダーランド
田舎から上京する親との待ち合わせは、決まって「銀座4丁目、和光前」
文・撮影 高橋伴子
日本で一番有名な通りの名前
東京へ行ったことのない田舎者であった幼なじみでさえ、「銀座」の名前は知っていた。銀座は、日本中で一番知られている地名であるに違いない。まあ、彼女にとって身近だったのは、ご近所界隈にあった△△銀座といった、商店街の事だったのかもしれないが……こんな風に、全国各地に銀座は存在する。古い記事を見ていたら、1967年の調査で、すでに420ヶ所も存在していたことが分かった。何故かといえば、単純なこと。○○商店街と称するよりも、ずっとあか抜けしているし、おしゃれな感じがするからであって、いわば、△△銀座は、商店街の代名詞なのだ。
さてこの「銀座」という名称、その由縁をご存知だろうか。水先案内をする私も、例にもれず、『お金に関係した場所だったのだろう』くらいの曖昧さである。物の本によれば、その名は古く慶長8(1603)年、日本橋から京橋・新橋に向かう東海道筋の表通りに面していた金工や武器などの職人町に、元々銀貨鋳造所があった。しかし、往来する人口が増加したことにより現在の銀座2丁目あたりに移されたという。以来、およそ190年もの間銀貨が鋳造されたいた所、ということでこの名が付いたそうである。
そのためなのか、銀座は大判小判に縁があることもつけ加えておこう。資料を読んでいて、偶然発見した記事なのだが、昭和30年代にビル建設ラッシュによって相次いで発掘されたものであった。中でも、昭和31(1956)年の小判騒動は、一躍銀座の存在を全国に知らしめた。銀座6丁目の現・小松ストアーの建設現場から発掘されたのである。当時女性ファッションの専門店として、戦後の銀座ファッションをリードしていた小松ストアーは、木造から鉄筋ビル建設へとなり、そのための地下掘削をしていた。掘削した折に出る残土は江東区の残土処理場に運ばれていたのだが、ある日、この残土の中に黄色く光るものを作業員が発見。『小判かもしれない』と、御上いや警察に届けたところ、なんとこれが、小判史上最も金の含有率が高い慶長小判や一分金であったというのだ。出土したのは、小判208枚、60枚にも上ったという。
しかし何よりも世間を沸かせたのは、この時の小松ストアー社長の言動であった。文化財保護委員会の判定が天下に報道されると、当事者である小松ストアーの社長は、いち早く所有権を放棄したのである。「これだけ話題になって、大いに店の宣伝になった。小判以上の価値があり、喜んでお国のものにしていただく」というコメントが報道されるやいなや、『さすが江戸っ子、銀座人! 小粋だねぇ』と話題になったという。
ところで、小松ストアーが開発したスタイルの幾つかを紹介しておこう。現在、デパートで当然のように使っているショッピングバッグ。ロゴの入ったお洒落なデザインの紙袋の原点は、ここにある。そして、団地サイズの家具の開発。小松ストアーの紙袋を持ち歩く事で、そのまま宣伝になるという思想。賢明かつ江戸っ子好みの社長の精神を垣間見るようだ。ともあれ、銀座には夢が眠っているのである。
和光
4丁目花屋
裏通り 西五番街
エキゾチックな路地裏の店
 銀座といえば柳。なぜ柳なの?
桜が散って、5月に入ると、そこここの街路樹の若葉に心躍る。これからの季節、梅雨になるまでの清々しいひと時がやってくると思うと、木々の若葉に忙しい日々が救われるようである。この頃、銀座で一番気になるのは柳だろうか。黄緑色の小さな葉をつける柳の枝がゆらゆら揺れる姿は、心地が良いものだ。その姿を写すような、「柳青める日銀座に燕の翔ぶ日」という一節も残されている。しかし、なぜ、「柳」なのか。なぜ、みな柳にこだわるのか。不思議だった。柳という木は、決して良いイメージではないのでは?と、常々思っていたこともあって、こんな素朴な疑問が持ち上がったのだ。
現在、3丁目に銀座の柳の姿を見ることが出来る。言葉だけではなく、ぶらぶら歩いてその実態を体感して見るのも、お薦めである。さて、「銀座の柳」という言い方は、明治初期に始まると資料の中では記されていた。その当時、銀座1丁目(京橋より)から8丁目に渡って、メインの大通りである銀座通りに植えられた柳だという。1丁あたり両側に26本植えられていたというから、繁る葉も鬱蒼としていたのではないかと思われる。しかしその後、区画整理や東京大震災、第二次世界大戦と、苦難の歴史を辿る事となった。伝えるところを読んでいると、常に人々は、銀座には柳とこだわり続け、折々に植え直してきたことがわかった。当初の疑問である「なぜ柳なのか」という点については、柳でなければならない訳があったようだ。
確かに、柳以外にも桜や楓、松などが植えられていた記録も残っているが、いずれも枯れてしまっている。原因はその土質にあった。銀座は、徳川幕府開府の折に、新しく海を埋め立てて平地を造った、新しい造成地域だったのである。神田駿河台の丘陵地を崩し、その残土を埋め立てに使っていたのである。つまり、銀座はかつて海であり、その土壌は、水気の強い土地だった。故にどんな植木を植えても、次々に根腐れを起こして枯死してしまったのだ。窮余の策として水気に強い柳が選ばれたことは、頷ける事である。私に言わせれば、柳には幽霊がつきもの。どちらかといえば、表通りよりは裏通り向きの街路樹だと思うが、銀座の柳が愛されてきた事を思えば、そんな想いはどうでもよいのかもしれない。昭和7年には、朝日新聞社の東京進出記念と銘打って、道路整備の都合で撤去された柳の復活が図られ、合計268本の柳が植えられたという。これをきっかけとして柳まつりが開かれたほど。地元の応援もあり、江戸の名残りの薄緑、銀座の柳が決定付けられたといえる。そして、昭和20年。3度の空襲でその柳も焼失してしまう。我々が楽しむ銀座の柳は、多分、4代目か5代目か……その道程を知る術を、私は知らない。とにかく、柳を懐かしむ声は後を絶たずというところだろうか。
あずま通りから路地へ
銀座の空はギザギザしている
エキゾチックな路地裏の店
3丁目路地裏
「金春芸者ってぇのがいたんだ」そうな
江戸時代、銀座界隈には、能役者が屋敷を与えられていたことが、時代地図から知る事が出来る。銀座の路地裏に店を構える小料理屋の女将の話は、まんざらいい加減なことではないようだ。女将の話によると、江戸時代は武家社会。すべてにおいて男中心であった。酒宴を開いても、女性をはべらす事もなく、芸事も男だけ。能役者の仕舞いを鑑賞する程度のことだったという。武家社会は女性の介在を許さなかったのである。そのために、能役者が厚遇され、金春、観世の能役者の屋敷があったのだ。そして、その屋敷では、下働きとして女性が使われ、やがて宴席の使い走りをするようになったという。ついには、躾の行き届いた女たちであるが故に、酒席にはべる事が許された。それが金春芸者の発祥となったといわれるのである。その存在は公認され、ついには江戸の華やぎの代表格となっていったのだ。
その名残りは、今も銀座8丁目、花椿通りから一辻入った裏通りに残っているのだ。金春通りには、現在はビルとなっているが能舞台があり、何といってもおもしろいのはその名を冠する銭湯が残っている。まだ、この辺りに芸者さんたちの取次ぎをする見番も残っているというが、そこまで調べる事が出来ず、定かではないのが残念である。
こうして広がった芸者衆の地域が江戸の町にできあがった。芳町、柳橋、深川、新橋といった場所である。それぞれに、ご贔屓の旦那衆が芸者衆を磨きあって独特の文化を誕生させたことは言うまでもない。芳町のお客は日本橋の旦那衆や接待相手の幕府のお偉方。柳橋は裕福な商人。深川は威勢の良い木場の旦那衆。深川芸者は、宴席での羽織りの着用が許され、羽織り芸者とも呼ばれるほどだった。銀座といえば新橋芸者。江戸時代よりも明治維新以後に脚光を浴びる芸者衆だ。明治維新によって、勤皇の志士たちの天下となる。それまでは京都・祇園でのお座敷政治が、東京遷都によってそのまま移動する。つまり、祇園から新橋へとなる訳である。それにつけ加えるならば、田舎者、芋侍を嫌う江戸っ子たち。幕府の恩恵を大いに受けた芸者衆とて同じこと。田舎者には目もくれない。その一方で新橋は、芳町や柳橋などよりはランクが少々下で幕府の権威から遠かった。このことによって、新橋の芸者衆は、維新を素直に受け入れる事となったのだろう。その結果という訳ではないが、明治の元勲の奥方に納まった方々も多い。
歌舞伎座のはす向かい、銀座5丁目に新橋演舞場が建つ。新派の公演などで知られる舞台であるが、この建物、新橋の芸者衆の出資による会館である。自分たちの芸の発表の場であり、劇場とは名乗っていない。京都祇園の「みやこ踊り」に対して「あづま踊り」が毎年5月に開かれる。つけ加えて、新橋演舞場前にある喫茶店「絵季花」は、演出家宮本亜門の実家である。
並木どおりから横丁へ。路地裏の足は自転車
銀座暮らしの猫
金春湯
歌舞伎座 
路地を知って銀座のツウになる
銀座の1丁目から8丁目まで歩いていると、その中心軸である晴海通りを境に、町の雰囲気か変わるように感じるのは私だけだろうか。表通りである銀座通りばかりを歩いていてもその空気感は分からないが、裏通りや路地裏へ一歩足を踏み込むと、その銀座独特の風情みたいなものが分かってくる。銀座1丁目から4丁目までの路地裏は、小さな料理屋が目立つ。その一方で、4丁目から8丁目は、新興地域。高級クラブが乱立する街並みだ。ショッピングで賑わう昼間の銀座から、華やかな女たちが競う夜の銀座に変貌する。このところの不況で少々元気がないといわれるものの、クラブのホステスの中で天辺に立つのは、やはり銀座のホステスたち。夜ともなれば美しい女性たちが、並木通りを闊歩している。ホステスたちのご機嫌をとるのか、この界隈では夜遅くまで店を開いている花屋や、ケーキ屋がある。専門のチョコレートを扱う店も多い。そば屋もしかり。亡くなった先代中村勘三郎が楽屋まで出前をさせたという、あられ蕎麦で有名な「よし田」も、7丁目辺りの裏通りにある。飲んだ後に足をむけるとするならば、手打ち蕎麦の「いけたに」だろうか。この店も、8丁目、旧電通通りから一辻入った裏通りにある。すれ違いながら、銀座ならではの人の波を感じ、新橋まで散策するのも一興かもしれない。
1丁目から4丁目までは、歩いてみると古くから店を構えていた料理屋が目につく。どちらかといえば落ち着いた雰囲気で、勤め帰りに足を向けるサラリーマンが入れるような店があれば、年配の重役風の人が行きつけにするような店もある。物語のありそうな小さな店が残り、この落ち着いた雰囲気を作るのだと思う。路地は車が入らない極めて人間臭い道である。大店の裏口があったり、小さな店が寄せ合っていたり、伝説的なバーがあったりと、路地裏の店ならばこそのファンも多い。
銀座3丁目、松屋デパートの裏通りにある「はち巻き岡田」もそうである。歴史に綴られた多くの文士たちがこの店を愛し、足繁く通った料理屋なのだ。通りから5,6歩入ると、年季の入った暖簾が客を迎える。そっと偲んで店に入る、まるで隠れ家へ通うような気持ちにさせる店構えは、いわば池上正太郎の世界で、江戸の風情を感じさせる良い店である。4人掛けの小さなテーブルが並び、4人も入れば一杯になる小上がりが一部屋。それだけの店である。媚を売らない親爺が有名だった。常連の客がいつも通りやってきて、いつも通りの注文をしてじっくり酒を飲み、ほどよく酔って帰っていくような、寡黙な店なのだ。
松屋デパートの真向かいには、カネボウビルがあった。現在はシャネルがそのビルを買い、工事中である。そこから横丁に入り、一つ目の裏通りを左へ入ると、昭和8年に開業した銀座で唯一のキャバレー「白いばら」がある。看板代わりに日本地図があり、全国各地の出身のホステスの名前が記されていて、その前を通ると、地方から出てきたお父さんたちは、思わず足を止めてしまう。残念ながら中に入ったことはないが、聞くところによると、店内のフロアはきれいに磨かれ、天井にはミラーボールが輝くという。ダンスタイムには生バンドが入って演奏するのだそうだ。今どきのロックの「クラブ」とは違って、ノスタルジックなやさしいダンスミュージックが演奏される。夜8時過ぎ、ホステスさんたちが客を見送りに通りに出てくる。彼女たちの群れは、夜の蝶さながらひらひらと、眩しいほどに美しい。近くの路地裏では、バンドのおじさんたちがしばしの休憩。街灯の下でサックスを横に置き、煙草をくゆらせていた。こんな光景が路地裏で毎日繰り返されている。
銀座の区画は100メートル単位だという。まっとうに表通りだけを歩くと、結構時間がかかってしまうもの。路地裏を知っていれば、随分歩く距離が短縮される。特に梯子酒にはもってこいの便利な方法である。路地をマスターしてこそ一人前と教えられた。
銀座の路地裏は、闇ではない。必ず、ほっとするような灯火(ともしび)がある。そして、路地裏のカドには、案外天使が舞い降りていたりするのだ。
銀座で天使を見たことがあるだろうか。晴海通りを数寄屋橋から4丁目の交差点に向かって、和光側を歩いてごらんなさい。必ずあなたも銀座の天使にあうことができるだろう。(了)
暮れ行く銀座4丁目交差点
はち巻き岡田
そば屋 よし田
銀座に舞い降りた天使
ソニア御用達の
ちっちゃなパン屋
〜パリ
優雅な散歩を
楽しみませんか
〜東京散策
「極上のいっぷく」
のおはなし
〜タスマニア
不思議の島
オークニー島
〜前編
後編
「我、ヴェトナムに遭難せり」
実に幸福な前編
危機迫る後編
グルリ下北半島、
食の旅
前編
後編
箱詰めにされていた中央アジアへの旅
銀座路地裏ワンダーランド
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