庭園という小宇宙を歩く
財を成し富みを掌中にえた者は、多くの場合道楽という文化を得ようとする。
その極みの一つが庭園であろう。
三つの時代に分けられた庭園の特徴を探ってみた。
文・撮影 高橋伴子
日本の庭園について
かつて、大陸文化に対して後進国であった日本は、しなやかな感性をもって渡来文化を受け止め、日本文化を作り上げてきた。「庭園」もその一端であることはいうまでもない。
日本庭園のはじまりは、仏教伝来(538年)と相まって大陸の庭園様式がもたらされたと考えられている。作庭の根幹にあるのは、長命永寿に由来する「中国神仙蓬莱庭園」(ちゅうごくしんせんほうらいていえん)であった。名庭と呼ばれる庭で、池、鶴亀の島、蓬莱山などが、よく見受けられるが、その由縁はここにある。
当初は大陸庭園文化の模倣にすぎなかった作庭が、やがて日本独自の様式を持つようになる。その背景には、日本ならでは幸運があった。変化に富んだ四季である。
農耕民族として生きた先人達にとって、神秘ともいえる季節の姿は、その営みと共にあったことはいうまでもない。大自然の美しい姿を凝縮した庭は、生活に密着した存在だった。だから我々は、庭という宇宙に包まれると、心から安らぐのである。
庭の魅力は、謎解きにある。謎解きは、時代や地域風土によってアレンジされてきた日本庭園をより楽しむ方法である。作庭の物語や時代背景、庭の様式を知ることで、庭の見方も変化するに違いない。東北に現存する個性的な名庭に出会ったとき、その不思議さとともに、造り込まれた創作者の思いに触れるようだった。
平安時代そのままの庭園様式
中世の庭の形体を残す
 毛越寺(もうつうじ)が創建されたのは850(嘉祥3)年、天台宗の高僧慈覚大師(じかくだいし)によって成されたと伝えられる。11世紀に入り領主藤原清衡(ふじわらきよひら)、基衡(もとひら)父子によって再興され、三代秀衡(ひでひら)の時代には、社堂坊舎を増築し「堂塔四十余宇、僧坊五百余宇」という壮大な伽藍配置であったと、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡(あずまかがみ)』に記されている。しかし、源頼朝(みなもとのよりとも)によって藤原氏が滅ぼされた後に焼失。16世紀末には、完全にその姿を失った。毛越寺造営に賭ける基衡の心には、厚い信仰心と京文化への憧憬があった。
その憧れは、庭園作りにも及ぶ。東西180メートル、南北90メートという大池を中心に、当時主流であった浄土式庭園が作庭された。浄土式庭園とは、仏教の末法思想を踏まえ、庭園を極楽浄土に見立てるというものである。
 毛越寺の庭園の作者は不明であるが、12世紀に著された日本最古の造園書『作庭記』に由来する意匠が見受けられるところから、その書に精通した者が作庭したのではと推測されている。
優美な曲線をもつ広大な池泉のほぼ中央には、勾玉状の中島がある。かつてはここに反り橋が架けられていたという。金堂址を右手にして歩くと、高さ4。ほどの築山がある。大小の石を組み合わせた姿は、『作庭記』の中にある「枯山水の様」の実例といえよう。池の北側に位置には、遣水(やりみず)が発掘復元されている。平安時代の遺構として日本唯一最大のもので、池に水を引くための機能と、曲水の宴に使われた。池の東南位置にある荒磯風の出島は、最も美しい景観といわれる場所である。池岸から水中へ玉石が敷かれ、その先に石組がそそり立つ風景は、庭園全体の調和を引き締めるようだ。浄土の世界を現世に表現する庭園には、花の寺でもある。大海に見立てた大池に四季それぞれの姿を映す。
江戸時代石州流茶道頭の作庭を見る
武士の子弟の教育の場
 有備館(ゆうびかん)は1691(元禄4)年、伊達家分家である岩出山城主3代目敏親が、武士の子弟を教育するために開設した学問所である。現存する学問所としては、日本最古のもので文武両道を目的とした郷学であった。郷土史家の逸見英夫さんによると、
「佐久間洞巌という儒学者が招かれ、大きな影響を与えました。新井白石や萩生徂来とも文によって深く交際しており、広い視野をもって若い武士達を教育していたことが伺えます」
天文学や地理までも学んでいたといわれ、優秀な人材を輩出している。地方であるがゆえ、中央の先進的な学問に対して劣らぬ学識者を育てようとしていた姿勢が見て取れた。優れた学識があれば、幕政においても勝ち抜ける事が出来るという思いがあったに違いない。驚いた事に、天文地理というグローバルな知識まで追求していたことが窺え、この頃の子弟たちの向学心の高さを知ることが出来た。
 有備館の敷地は、3917坪。西北に学問所であった建物が位置し、東南の大半は庭園である。石州流茶道頭であった清水道竿により作庭された回遊式池泉庭園である。石州流茶道は、江戸時代武家社会で広く取り入れられ、武道茶道とも称された茶の湯である。
庭内中央には、周囲430メートル余りの大池があり、亀島、鶴島、兜島、御中島(茶島)が点在する。建物の中央左手からは、最も大きい御中島へ橋が架けられ、茶室「松花庵」に導かれる。建物の上の間から庭を眺めると、真正面に野趣に富んだ山肌が借景となっていることが分かる。山肌は、本丸のあった城山の断崖であった。
庭内を散策していて感じるのは、何といっても庭木の豊富さである。およそ360本の樹木があるといわれ、縁のある老木も多い。推定樹齢300年といわれる山桜は、岩出山伊達家3代、4代の夫人が、京都冷泉家より重ねての輿入れであったため、記念樹として植えられたもの。実用的な用途を考えて植えられてものも多い。椿はその油をとって灯火用に、栗や桜は机や建物の補修用にされた。季節を通して花が絶える事が無い。紅葉の頃を思った。さぞや美しいであろう。紅葉した樹影が水面に姿を映す秋、庭の姿を見てみたいものである。
明治時代に作られた大石武学流様式の名園
明治時代の三名園の一つ盛美園(せいびえん)
なだらかな田園風景だった。林檎農園が所々に連なりを見せている。青森県南津軽郡の大らかな自然に包まれた尾上町(おのえちょう)は、古くから植木の町として知られ、10年ほど前からは、サワラなどを使った生垣作りを奨励し、条例まで設けている。尾上町の生垣の歴史は古い。津軽藩の殿様が黒石藩への往来する沿道の、むさい物を隠すという配慮から始まったとされている。造園の町、尾上町の一画に、国指定名勝の盛美園がある。
 盛美園は、明治35年、清藤(しんどう)家24代当主盛美によって着手された庭と、御宝殿、盛美館によって構成されている。庭園は、江戸時代初期、津軽地方に伝播した大石武学流という庭作りの真髄を示したものという。では、大石武学流とは、どのようなものなのだろうか。
 日本の庭園は、そもそも仏教美術と共に発達し、平安時代以降京都を中心に完成された。その後徐々に地方へ伝えられ、気候風土に合いまみえるように庭の形式美が追求されたのである。その一つが、大石武学流であった。地方へ下った公卿が伝えたもので、本来の仏教文化と地方に根づく古神道文化の手法を取り入れた京都風の作庭である。武学流は明治時代に到り、隆盛を極め各地で作られた。盛美園は、この手法を忠実に再現した庭園である。
庭を眺めるために作られた建物である盛美館と調和した真・行・草の作庭の構図が、ここに潜んでいる。
作庭には、当時、庭作りの宗匠といわれた小幡亭樹(おばたていじゅ)が招かれ造園にあたった。着工から実に9年の月日をかけて作庭されている。総面積、3600坪(1.2ha)の枯山水池泉回遊式(かれさんすいちせんかいゆうしき)である。
庭へ足を踏み入れる。奥行きのある懐の深い空間を感じた。飛び石は1メートルほどの間隔で置かれている。このような装飾的な配置は、武学流独特のもの。庭園を見るために建てられたという、盛美館から庭と向かい合う事にした。
池を中心とし、「真」「行」「草」の構図を作るという庭園。中央に池泉と枯池を2段に配し、池泉には、神仙島(鶴、亀)を浮かべている。島には、蓬莱の松がしっかり根を張り、まさに絵のような構図だ。手前には枯池と白砂が広がっていた。砂利の大きさを微妙に変えて、広がりのある砂浜を表現。計算された効果を感じた。池に向かって左手に「真」の築山(つきやま)、右手に「行」の築山を作っていた。両側の木々に挟まれた空間は、閉じることなくそのまま津軽平野へ抜けている。まるで大海をイメージさせるような空間は、構図としての緊張から、一瞬にして解き放すようだ。見据えた先にあるのは、なだらかな梵珠山(ぼんじゅさん)。500メートルに満たない小さな山である。中央の狭い空間は、借景の効果を意図するものだろうが、それにしては、この山は低すぎる。『あの空間は夜、北斗七星を借景にしたのではないか』という、ロマンティックな感想を残した人もいたそうである。
「草」は、左右に広がる平庭。大きく刈り込まれたイチイは、天地創造の神々の象徴。背景には、鬱蒼とした杉の木。のびのびとした姿を第一とした、大らかな剪定である。
惜しみなく時間を使って作られた
「ただ庭を作るという事ではなく、目的の一つに小作人達の救済策という考えがあって、9年という時間がかかったのではないでしょうか」
現在の当主、清藤茂夫さんはこう語った。明治30年代、抱えていた大勢の小作人達は、農閑期に従事する仕事がなかった。その人手を作庭に使い収入を得させた。当然庭作りは、真夏と真冬の時期に限られる。夏は庭石を探して掘り起こし、冬になってソリで運ぶ。こうして作られた庭から、盛美館を眺めた。この建物は実に奇妙である。
一階部分は純和風、2階は洋館風である。「羽織袴に山高帽」と呼ばれたそうであるが、何の違和感もなく庭に調和していた。この建物を建てたのは、大工棟梁西屋市助。完成したのは、明治42年。2年がかりの大仕事だった。西洋建築など珍しく電気さえない時代に、創意工夫をもって設計された。2階天井の四隅に作られた空気口、丸屋根の展望室、石粉を使った装飾。驚くのは、当時まだ電気が伝わっていない状況の中、配電を考えて設備だけが先に作られたことである。
 スギやマツ、イチイの間から見え隠れする四季折々の風景は、眼福につきることだろう。
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