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取材・撮影・文 高橋伴子
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| 「中国の紹興へ行く」と言った時、ふとどき者の友人たちは異句同音に酒の話に夢中になった。中国の酒といえば、日本人の我々は紹興酒と連想するのが常である。それほどに、紹興には良い酒、美味い酒があるのだということが、このふとどき者どもの胸中にはある。ゆえに、私は紹興酒のオミヤゲを約束させられ、その上長々と薀蓄を聞かされてきた。紹興には酒だけなのか……。正直多くの期待はなかったのである。 紹興は中国の春秋時代に、越の都として栄えた歴史をもつ古い街である。 紹興への道筋は様々ある。紹興を目指して上海から列車で入るというならば、3時間ほどかかるといわれた。我々は、本来の目的が杭州であったために、杭州から車で入ることにした。時間にして一時間あまり。 車中、時折すれ違う長距離バスが話題にのぼる。大型バスなのだが、その中は、二段ベッド式に区切られている。ベッドに寝転んだ状態で移動することになるわけだが、椅子式の場合と違って人数が制限されるのではないかというカメラマンの考察であった。私としては、半端ではない距離を走るわけなのだから、乗客の立場をよく理解した発想だなあといたく関心した。乗客は、確保したベッドスペースにありったけの荷物を持ち込んで乗っている。中国式バスの旅を垣間見た思いだった。 紹興は小さな街であった。徒歩で十分観光できる街である。古い街並みが残る都昌坊路の区画以外は、近代的な街並みに整頓されている。現在の住民にとっては、この街の姿のほうが自慢なのかもしれないが、多くの観光客はその風景に背を向けているようだった。 この対比が妙に可笑しいところだが、やはり紹興ならではの雰囲気は、縦横無尽に走る運河と、その運河に架かる丸い橋の風景にある。運河は街のほぼ1割を占めると言うほどの水の街だ。水郷沢国(すいごうたくこく)と称される古い街の区画の入り口には、看板のような大きな壁があり、そこにはこの街が生んだ偉大な文豪魯迅の姿が描かれていた。 まるでテーマパークへ入るように、我々は足を踏み入れた。水路の両側には民家が建ち並ぶ。白い壁の民家のほとんどが明・清時代に建てられたもの。水路に小舟がゆっくりと通りすぎて行った。舟は笹舟のような形をした足漕ぎ舟、烏蓬舟(ウーポントーワン)。船頭は、独特の形をした黒いフェルト帽を被っている。 アーチ型の橋に佇むと、何百年もこのままなのではないだろうかと思えるような、人々の暮らしを垣間見ることが出来た。家の敷地からそれぞれに階段が作られ、水路の水を使うことができる。野菜を洗ったり洗濯をしたり、鍋釜を洗ったりと、衛生上どうなのかという我々の心配などどうでも良いらしく、いつものように水路の水を使っていた。 面白かったのは、家々の間のやや広いスペースに高菜の漬物干しの光景である。漬物にするいくつかの段階のものが広げてあって、『なるほど、こんな風に漬物になっていくんだ』と知ることが出来た。この高菜の漬物は、中国で口にした料理の流れの中で、いつもアクセントのように登場していた。どんなものなのかという好奇心が胸をよぎっていたから、その答えを知った満足感があった。この漬物は、何度も何度も繰り返し漬け込まれていたのである。漬け込んだらお仕舞いという単純なものではない。これが、微妙な酸味を生んでいたのである。 橋を渡り、小さな路地を行く。提灯が飾られた家が続く。お婆さんが、家の前に坐って、通り行く人たちを眺めている。時折、元気な掛け声が聞こえてきた。年寄りたちが集まって麻雀を打っている。覗いてもよいかと聞くと、やっていかないかという応えが返ってきた。「良い鴨だよ。姐さん」と囃していると通訳が言っていた。 |
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| この街の案内人がまず口にしたのは、この街が誕生させた文化人についての解説であった。文豪魯迅、中華人民共和国総理周恩来、清代の女性革命家秋瑾(しゅうきん)の故郷であることを語る。ふとどき者の友人たちに伝えたいと思った。酒よりも先に、まずは文化なのである。 最初に訪れたのは、魯迅故居。魯迅の生家跡である。魯迅は1881年に生まれ、ほぼ19年ここに暮らしたという。医学を志して日本へ留学。仙台医学専門学校で学んだ。その当時、スパイ容疑でとらえられた中国人が斬首された事件に遭遇。その事件で薄ら笑いをして見つめる中国人がいることを知り、ショックを受けた。そのことがきっかけとなり、中国の病める精神を救うことに意義があると自覚して、中国に帰国。文学に転じた。日本では「阿Q正伝」、「狂人日記」などがよく知られているが、中国ではむしろ思想家として捉えられているという。 魯迅の著書の一冊「故郷」は、1919年魯迅38歳の時に、生まれ育った屋敷を売り払い一家を連れ北京に向かう体験をもとにかかれている。魯迅故居には、その情景を彷彿とさせる風景が今も色濃く残っている。魯迅の部屋には、机、椅子、ベッドなど、当時使われていたものがそのまま置かれている。台所には竈や調理器具があり、住んでいた当時の空気を感じるようだった。裏手の庭は百草園がある。家族の食材のために野菜が植えられていたらしいが、その当時の魯迅にとっては、都合の良い遊び場所であったらしい。百草園を取り囲む石積みの塀の一部は、魯迅が育った時代のものだという。戯れる魯迅の楽しい声が聞こえて来るようである。 魯迅故居の斜め前にある三味書店に足をむけた。ここは、魯迅が学んだ私塾跡である。魯迅が12歳〜17歳まで通った所で、内部は、当時そのままに机と椅子が並び、再現されている。魯迅が使っていたといわれる机には「早」の文字が刻まれている。若き魯迅は優等生ではあったが、やんちゃでもあったらしく、ある時遅刻をし大いにしかられたという。その時恥じて、二度と遅刻をせぬようにという戒めで、机に「早」の文字を刻んだという。それが今も残っているのだ。 建物を通って路地に戻ると、目の前の水路を舟が行く。魯迅の時代も同じ風景が彩られたのだろうなと思った。路地の一画に、臭豆腐の文字があった。豆腐のくさやみたいなものであるが、紹興の酒のあてに、なぜかよく合う。 |
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| 名筆として讃えられる筆頭に王義之がいる。書を嗜む人であるならば、王義之の書を臨書するに違いない。王義之は4世紀生きた人である。山東省の生まれで、中央政界を嫌い地方の役人に就いた。書に天賦の才能をみせ書聖といわれた人である。王義之は、書を芸術として確立させた人として評価されている。 その書にまつわる伝説として、「王義之一字一千両」という話がある。王義之の娘がとある資産家に嫁いだ。金があればあるほど良いという考えの資産家で、この家の姑は、中国一の書家の娘であるから嫁入り道具も多いに違いないと思っていた。しかし、運び込まれた道具は、木の椅子二脚と戸棚だけであった。戸棚に金銀が収められているのかと開けてみると、字の書いてある紙ばかり。欲張りな姑は怒りその紙をみな焼いてしまったという。 何十年もたち、娘は子供を生み育てこの家は大家族となり貧乏になっていた。ある日娘を訪ねる人がきて、王義之の書はないかと問う。先生が残した書があれば、買い求めたい、金に糸目はつけないという。姑は後悔したものの、とっくに焼いてしまってここにはない。勝手に捜せばよいとこたえると、その人はあちこち捜し回った。戸棚の奥から一文字だけ書かれた王義之の書の紙片を見つけ出すと、一千両の金を差し出したという。そのことから「王義之一字一千両」の故事が生まれたのである。 王義之は、中央政府から現在の紹興に赴任してきた。この地が合ったらしく、土地の豪族や名士と交流を深めた。永和9年(351)3月3日、名勝蘭亭にいて、近郷近在の名士を41人集め、曲水(庭園の中に水を引き造られた曲がり流れる水の道)に盃を浮かべ宴を催した。その時作られた詩を集めて一巻とした際、その巻物の序文に王義之自ら麗筆をふるったのが、後世にいう「蘭亭序」なのだ。その場所がそのまま残されている。 「蘭亭」は竹林に囲まれ実に静かな空間だった、渡り行く風は竹林を揺るがせ、さわさわとざわめきのような風音をたてる。門には、金文字の行書で書かれた「蘭亭古蹟」の扁額が掛けられている。竹林に包まれるように、曲がりくねった道に誘われてすすむと、「鵞池」と書かれた大きな石碑があった。「鵞」の字を王義之が、「池」の字を息子の王献之が書いたといわれている。王義之は鵞鳥(がちょう)が好きだったということで、曲水の宴の場所には今も多くの鵞鳥が放し飼いにされていた。毎年3月3日には、全国の書家が集まるのだそうだ。 亭内に、八角二層の立派な建物があった。その中には、乾隆帝と康熙帝の書が裏表に彫られた立派な石碑があった。文化革命の頃、尽く古い文化が壊され、この石碑も被害を被るところだったが、近隣の人々がこの石碑の表面に墨を塗り「壊すほどの物ではない」と訴え難をのがれたのだと通訳の人は解説してくれた。漢字の並ぶ石碑の、そこに書かれた内容を私は知ることは出来ない。しかし、その筆致は私を圧倒していた。書の力を知る体験となった。 |
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| 紹興酒の製造は、なんといってもこの街の産業の柱である。良い酒が生まれるのは、良い水と良い米があるからだ。紹興の街には、70を越える酒造が水路にそって点在するといわれている。それぞれに、醸造方法を微妙に変え、その手法は企業秘密となっている。そのために、実際に作っている工場内部は見せてもらえなかった。良質のもち米を使う。もち米独特のとろっとした丸みのある舌ざわりは、時間をかけて寝かせることから生まれるという。 倉庫へ案内された。雑然と甕が並んでいる。20年ものという甕を見つけた。酒が仕込まれた年度を記してあるらしいのだが、埃にまみれていて判別は難しい。甕の表面は、中から滲んでくる水分と長年の塵、埃で真っ黒になっている。これが美味い酒の勲章なのかと感心した。洋の東西を問わず、ウィスキーであれ、ワインしかり、時間が酒のうまみを作り出すようだ。人間でさえ同じである。 「女児紅」という酒があったので、その意味を通訳に聞いた。女の子が生まれたとき酒を仕込み土中に埋め、女の子が成長し嫁に行く時、掘り出して結婚の祝いに振舞ったという習慣に由来してこの名が付けられたのだという。年月を経て熟すように、やや赤みのある酒になるという。 試飲のための紹興酒が並べられた。スーツを着こなす青年が酒の解説をしてくれた。5年から15年までの酒をガラスの盃についでくれた。色の違い、香りの違いが明白にわかる。若さと老練さを味わうようで面白かった。本来私は下戸であるにもかかわらず、紹興酒は口にできた。その理由は、まろやかさに他ならない。ちなみに、日本では紹興酒と呼ぶのが常だが、中国では老酒と呼ぶという。 「お土産にいかがですか」促され、しばし思案した。このデリケートな味わいを、友人たちはわかるだろうか。確かに長年寝かせたものは、その味もよく価格も高い。私は迷った。買って帰ることはやぶさかではないが……8年ものと10年ものを睨み、どちらかを選択しようと思った。酒は、女性の好みと同じ位うるさいと自称する同行カメラマンに、何も言わず試飲させてみた。ほとんどその差がないという事が分かった。ならば、8年ものに決定。80元(約1100円)なり。大いにもったいぶって友人に渡したことはいうまでもない。(了) |
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