タイトル
 こんなことがありました。スクランブル交差点で、信号待ちをしていたときのことです。青信号に変わると、大勢の人たちが一斉に動き始めました。自分の目的の場所に向かって、寄せ来る人波をおしのけるように、脇目もふらず足早に歩いて行くのです。出遅れてはなるまいという思いが、無意識に働いてしまいます。
その交差点の群集の中で、ある中年のカップルが目に入りました。二人はゆったりとした歩調で、手を携えながら誠に優雅に渡っていたのです。ほとんどの人たちが追い越して行く中で、二人は急ぐこともなく、信号が変わるのではなどとあせることもなく、歩いて行きました。まるで、その二人の周囲だけが静寂な別世界のように、私には感じられました。
 私は何を急いでいたのだろう……こんな疑問が、胸をよぎりました。そして思ったのです。急ぐこともあせることもないのだと。自分のあるがままの歩幅であるけばいい。より早くと思う気持ちが、自分に無理を強いていたのです。そして、自分の身幅に合わないような仕草は美しいものではないといことも、実感しました。
ある日私は、ぽっかりあいた休み時間を利用して、散歩をすることにしました。中年のカップルが教えてくれた教訓を胸に、大都会のど真ん中、いつも足早に通り過ごしてしまう界隈を私の歩幅で歩いてみることにしたのです。勿論、私の歩調はアンダンテです。
地図 インテリジェントビルの建ち並ぶ周辺からスタートしました。どうしてここからなのかと聞かれても、それほどこだわった理由はありません。ほとんど仕事場としての意識しかない土地ほど、普段何も見ていないなあという思いがありましたから、ここから始めようと思ったのです。
地下鉄の神谷町の駅からホテルオークラまで、たらたら坂を登ります。左手に大きなビル。そこには、TV東京。この界隈は外資系の会社も多いらしく、ランチタイムにはスターバックスのコーヒーを片手に行き交う、外人のビジネスマンの姿を見かけます。真正面にホテルオークラ別館の建物を見て、右手の坂を登ります。坂が急勾配になりました。そこで、大きなホテルの建物にへばりつくように、一般の家屋が建っているのを発見しました。大谷石の土台に、木戸のある家。昭和30年代の風情を残しています。その坂を登りきると、ホテルオークラの本館につきあたりました。
ホテルオークラは、大倉財閥の二代目大倉喜七郎によって建てられたホテルです。現在でも、日本はもとより世界のホテルの中でも、一流ホテルとしてその名を知られています。ホテルオークラは、かつてあった大倉家の屋敷跡に建てられているそうですから、大倉家がどれほど大きなお屋敷であったかをうかがい知ることができます。
そのホテルオークラ本館の前に、石造りの重厚な建物が目にはいりました。中国風の雰囲気を取り込んだ設計です。これが、大倉集古館。建物は、伊藤忠太という建築家が昭和初期に設計し、完成させたもので、この建物自体、国の登録有形文化財に指定されているそうです。初代大倉喜八郎、二代喜七郎によって収集された美術品を中心として構成された、日本初の私立美術館です。ここで、私は思わぬ出会いをすることになりました。
脳裏に焼きついた日本画の名品
前田青邨「洞窟の頼朝」
落ち着いた照明の中に浮かび上がったのは、前田青邨(まえだせいそん)の「洞窟の頼朝」と題された名画でした。歴史画の第一人者といわれた前田青邨が描く源頼朝の姿は、緊張感に満ち、その一瞬の緊迫をとらえているように感じました。頼朝の眼差しのむこうに、いったい何があるのだろうかと、しばし立ち止まるほどです。石橋山の戦いで、頼朝は惨敗し敗走したあげく、六人の配下の武者とともに洞窟に身を潜める。その情景を描いたものです。まるで、彼らの呼吸までも伝わってくるような画面でした。
前田青邨「洞窟の頼朝」
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 そして、何よりも感動したのは普賢菩薩像(国宝)との出会いです。ゆったりと大らかな姿。かすかに残る衣の文様。紅や金の色彩に、本来どれほど鮮やかな姿であったろうかと思い忍ばせます。この小さな美術館にこれほどの宝物があった事を知ったのは、大変な収穫でした。アンダンテのリズムでなければ分からなかったことだと思います。忘れえぬ出会いとなったことは、言うまでもありません。
大倉集古館では、年に5回、収蔵品を中心とした企画展示をしているそうです。季節ごとにふらりと足を運んで名品と出会う、そんな贅沢な散歩をしてみたいと思いました。
大倉集古館を出て、アメリカ大使館の脇の道を入ります。左手に霊南坂教会を見て道なりに坂を下りて行くと、アークヒルズの裏手に出ました。そこは曲がりくねった桜並木の坂道。桜の季節は、さぞやと思えるほど見事な桜の木が続いています。そのまま桜坂を下りて行くと、全日空ホテルの脇にでました。今まで歩いてきた道は人影もまばらでしたが、ここまで来るとさすがに混雑してきます。頭上には高速道路が走り、青空を遮断しています。私の誘惑に満ちた散歩は、ここが終点。風のように私を追い越して行く人、人、人。でも、もう気になりません。私のテンポで歩いたからこそ、忘れえぬ宝物に出会ったのですから。
普賢菩薩像(国宝)
普賢菩薩像(国宝)
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